(ブログ版)「細見晴一『ジェンダーの壁』を批判する」

(2020年7月8日公開。7月8日22時、補遺に追記・修正)


本記事は「未来」2020年7月号に掲載された拙稿「細見晴一『ジェンダーの壁』を批判する」について、初稿から、「未来」掲載用に削除した箇所を一部補い戻し、さらに補筆したものです。本記事全体(注や補遺を含めると)は、「未来」掲載稿(4ページ分)の6倍、約2.83.1万字*1あります。本記事に言及してくださる際には「未来」4月号の細見の評論や、同7月号掲載の特別寄稿(山﨑修平「『未来』四月号細見晴一『ジェンダーの壁』への異論」及び拙稿)もご参照くださいますようお願い申し上げます*2。目次をご覧いただき、瀬戸夏子の時評「死ね、オフィーリア、死ね」に言及した補遺など、興味のあるところだけご覧いただく形でも構いません(特に、瀬戸時評に関わるパートの中盤、GGIやPISAなどの国際統計に興味がない方は飛ばしていただいて構いません)。


本記事の目的は、「未来」2020年4月号に掲載された細見晴一の評論「ジェンダーの壁」の論理的問題を検証・指摘(ファクトチェック)したうえで、評論としての妥当性を問うことです。


【全体を1文に要約】細見晴一「ジェンダーの壁」は、評論として不適当。

はじめに

言語に関して注意深く、正確であることは、意味の崩壊に対抗し、希望と展望を植えつけるべき愛すべきコミュニティとの対話を勇気づけるひとつの手段である。(中略)わたしが試みたのは、ものごとを真の名で呼ぶことなのだ。

レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば ーー危機の時代と言葉の力』(邦訳p.7。渡辺由佳里訳、2020、岩波書店


「言動に責任を持つ」とは、これまでのことばや振る舞いを、現在や未来においても誠実に引き受けることだ。ことばや振る舞いを積み重ねた地層のことを、社会においては「歴史」と、そして文学においては「文脈(コンテクスト)」と呼ぶ。歴史や文脈を踏まえない文章や、それらを捻じ曲げた文章は、評論として不適切である。歴史や文脈を読者に対して十分に共有しない文章もまた、評論としての客観性を欠く。歴史を軽んじる者も文脈を軽んじる者も、歴史をありもしない事柄へ修正し、ありもしないことばに対して他人を批判する。理屈のとおらない説明で人を欺き、ときには、そういった過ちを繰り返して恥じもしない。


本稿では、本誌四月号に掲載された、細見晴一による評論「ジェンダーの壁」が社会・歴史も文学・文脈をも軽んじたものであることを指摘する。ただし、重要なことなのでこの後でも幾度か繰り返すが、細見の評論が然るべき蓄積やコンテクストを軽んじたものであるからといって、細見自身がそれを望んでいるとは限らない。言説と人格は分けて語られるべきであるし、本稿に登場する誰に対しても、人格批判・人格否定を行う意図は一切ない。書かれたものがすべてである。本稿による批判の俎上に乗るのは「書かれたもの」のみである*3


細見評論の問題は概ね、

  1. 加藤治郎の「ミューズ」発言擁護と、関連記事執筆者への不適当な当てこすり
  2. 短歌における「ニューウェーブ」に関する議論における、千葉聡への不適当な非難
  3. 瀬戸夏子の時評「死ね、オフィーリア、死ね」に対する不適当な要約と、議論のすりかえ
  4. 小佐野弾『メタリック』中の一首を引いた不適当な解釈

という4つの要素からなる。細見評論中の主な問題に限って順に見ていく。

為念:「細見評論」は「評論」ではなく、エッセイである可能性もある……が

細見評論がそもそも「評論」として書かれておらず、エッセイ・随筆である可能性を念の為検討しておこう。細見評論が「みらい・くりてぃーく・えせー」*4という枠組みで掲載されており、エッセイ(エッセー、エセー、随筆)である可能性は否定しきれない。

エッセー【essay】 の解説
《「エッセイ」とも》
1 自由な形式で意見・感想などを述べた散文。随筆。随想。
2 特定の主題について述べる試論。小論文。論説。

エッセーの意味 - goo国語辞書

〈細見がエッセイとして書き、「未来」編集部もまたエッセイとして受け取ったならば、エッセイらしい思いつきでも、論立てが多少おかしくてもよいはずだ。自由に書いてもいいだろう。エッセイなら、評論として不適当で当然だ〉と考える向きもあろう。私も、細見評論が「評論」ではなく「エッセイ」だとしたら、本稿を書こうとは思わなかった。


しかし、これは「未来」が取り決めた募集要項上、「エッセイ」ではない。
「未来」7月号には掲載されていないが、「未来」中に「評論・エッセイ募集のお知らせ」があり、ここに応募されたものが「みらい・くりてぃーく・えせー」欄に掲載されるものと理解している。手元に2019年12月号があったので、こちらから募集要項を引用しておく。
f:id:theart:20200707215510p:plain*5
注目していただきたいのは、「〈字数〉」である。

評論の場合 30字×190行(タイトル別)
エッセイの場合 30字×90行(タイトル別)

となっており、規定枚数が異なっている。エッセイの「30字×90行」は「未来」の形式上2ページ分であり、評論の「30字×190行」は4ページ分である。細見評論は「エッセイ」としては規定枚数を超えてしまっており、「評論」の規定枚数には収まっている。よって、細見評論は「未来」誌上に掲載された限りにおいては、「エッセイ」ではなく「評論」の枠組みでその妥当性が問われることとなる。


よって、細見の2020年7月1日のツイート

評論かエッセーかという議論があったが、文字通りクリティーク・エッセーのつもりだ。確かに字数は違うがこだわらなかった。批評的なエッセーがあってもいいでしょうに。

と細見自身が認めているように、字数が違う以上、細見評論を「エッセイ」として扱うのは山﨑修平や私にとってルール違反、ということになってしまう。


当然、「批評的なエッセー」があってなんら構わない。ただ、細見が書き、「未来」2020年4月号に掲載された散文は、「みらい・くりてぃーく・えせー」欄の規定上「エッセイ」としては扱い得ないのだ。

加藤治郎の「ミューズ」発言について

細見が詳細を示さずに*6、その批判者を非難している当の事案は、2019年2月17日に加藤治郎ツイッター上で

水原紫苑の美しさには
凄みがあった

水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった
穂村弘、大塚寅彦、加藤治郎、みな水原紫苑に夢中だった
凄みのある美しさが、彼らを魅了した

などと発言(現在は削除済みであるが、Twilogには記録が残っている*7)した事案に関するものである。


加藤の発言に対する批判は
・川野芽生「うつくしい顔」(「現代短歌」2019年4月号)
濱松哲朗「氷山の一角、だからこそ。」(「詩客」短歌時評サイト)
中島裕介「ニューウェーブと『ミューズ』」(「短歌研究」2019年4月号初出。中島のブログで公開済み)
・同「権威主義的な詩客」(「詩客」短歌時評サイト)
・同「加藤治郎さん、あなたは文章が読めない」(中島のブログ)
などの記事群に詳しい。細見は自らの評論で批判対象を明示していないため、事情をご存じない未来短歌会会員*8には細見評論が正しいのか否か検証できなかったことであろう。
これらの記事群はいずれもツイッター以外の場に書かれたものであるため、細見の「ツイッターでの固有名詞は書かない」という身勝手な〈流儀〉にすら当然合致しない。

細見は2019年8月に、中島とのやり取りで諸々理解していたはずだった

2019年8月に細見と中島の間で加藤の「ミューズ」発言に関するやり取り*9があった。その際細見は「中島さんをはじめ数人の方は直接正々堂々と言っているので違いますけどね」と述べていた。


しかし、結局、その「直接正々堂々と言っている」内容を検討せず、評論としても扱わなかった点は問題であろう。細見評論は内容上も、2019年8月のやり取りから見解が後退している。もし先述の記事群ではなくTwitterでの(ときには、細見が「ただのゴミ」扱いするように無責任な)発言のみを短歌評論として扱おうとしたのであれば、それは今回の細見評論よりももっと厳密な手続きが取られなければならないはずだ*10。――問題は、Twitterの発言の一部が「ただのゴミ」であるかどうかではない。その発言をどこに、どのように置き、何と組み合わせ、どのように見せるか、である。それを「ただのゴミ」にしてしまうのか、評する価値のある発言となるかが、評論やエッセイという散文の場での腕の見せどころではあるまいか。

細見による雑な擁護

細見は「(加藤が水原の)その才能を褒め称えたかったのは言うまでもない」と加藤を擁護する*11が、「美しさには凄みがあった」「凄みのある美しさが、彼らを魅了した」というツイートのどこを「女性の容姿を褒め称える」以外に読めるのか。


――と、2019年8月にも細見に問いかけていた。


加藤の「水原紫苑の美しさには/凄みがあった」という発言について、細見は「一行目は知りませんでした。びっくりです。」と2019年8月時点で書き、その発言を認識していたはずだった。それにもかかわらず、細見評論では

「ミューズ」が女性の容姿を褒め称える表象としての女神のみで受け止められたからだ。

などと、既存の発言を無視し、加藤を雑な仕方で擁護する。
加藤の「ミューズ」発言に対して批判的な、先述の記事群を一読すればわかるように、「ミューズ」発言の問題は細見評論で指摘した箇所にとどまらない。まさに、加藤の「ミューズ」発言の直前に「水原紫苑の美しさには/凄みがあった」と述べた、事実としての文脈(コンテクスト)がある。このコンテクストを細見評論では(「コンテクスト」だとか「ヒステリックな誹謗中傷」だと指弾する一方で)踏まえていない点で、細見評論は、加藤を擁護する評論として不適当なのである。


加藤のツイートが、細見が述べるような意味で「ハイコンテクスト」なものでないことは、先ほど引用したツイートのみで明々白々であろう。「実はこういう意図があって……」と後出しジャンケンで文脈を作りたがるのも、架空の言説を他人が言ったものとしてでっち上げ、それを批判するのも、歴史修正主義者のよくやる手口である*12


また、細見が先に上げた記事群に対して「『ミューズ』という言葉の背景を十分吟味しない」「ギリシャ神話が元ネタ」と批判的に述べているが、その批判は記事群に何一つ当たっていない。記事の執筆者たちは、ミューズという語の起源を承知の上で、加藤が「ミューズ」発言の同日に

「ミューズ」は、アンドレイ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」の時代に、シュルレアリスムのミューズがいたということを踏まえています

とツイートした事実を踏まえているのである。細見は批判対象の記事群だけでなく、擁護したいはずの加藤の、発言という文脈(コンテクスト)まで捻じ曲げてしまっている。*13


また、この点――「ミューズ」という語について、加藤がアンドレ・ブルトンを引用したと明言していること――についても、2019年8月時点で中島が細見に対して指摘していた。にもかかわらず、細見評論は「『ミューズ』という言葉の背景を十分吟味しな」かっただけでなく、事実として伝達された内容すら都合が悪ければ無視してしまっている。*14


ありもしない文脈を捏造し、しかも批判対象の名前を挙げずに当てこするだけのものを、一般的には「評論」とは呼ばない。とはいえ、インターネット上や「未来」誌上など他人の目に触れる場に出たならば、「評論とは呼ばれるべきでないことば」も、バイトテロと同様に批判を受けるのは当然のことだろう。


細見にせよ加藤にせよ、あることばを発する際に、聞き手や読者にどう受け止められるかと十分な検討をしない者を歌人と呼べるのか。発言当時に世間を賑わせていた「ミューズ」という語を用いるにあたって慎重な検討を怠る者が、我々未来短歌会*15の選者を務めることができるのか、他人の文脈を軽視し、己の文脈ばかり強調する者が、会員諸氏各自の詠草を読み選歌できるのか。このままでは未来短歌会が変質してしまうのではないか。――私は未来短歌会の一会員として、加藤の「ミューズ」発言や、加藤を中途半端に擁護する細見評論を看過できない*16。会員諸氏にもぜひご一考いただきたい。

ニューウェーブ」に関する議論について

次に細見は、2018年6月に開催されたシンポジウム「ニューウェーブ三十年」(発言録が「ねむらない樹」vol.1等に収録)での、加藤や荻原裕幸、千葉聡らの発言を検討している。

短歌ムック ねむらない樹 vol.1

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すなわち、

  1. シンポジウムで加藤が「ニューウェーブといえば荻原、穂村、西田、加藤」と発言
  2. 質疑応答で千葉が「ニューウェーブで男性四人の名前はあがりますが、女性歌人で同じように考えられる人はいませんか」と質問
  3. 質問を読み上げた荻原が「論じられていないのでいません。それで終わりです。女性歌人について、なぜニューウェーブのなかで語られないかって話はまた別」と応答
  4. さらに、東直子が「林あまりさん、早坂類さん、干場しおりさんなどが、あまり論理の俎上にあがってこないのかとずっと疑問に思っていました」と更問いし
  5. 加藤が「女性歌人はそういったくくりのなかには入らない、もっと自由に空を翔けてゆくような存在なんじゃないかと思う」「(早坂類は)天上的な存在として思っています」「いま名前があがったみなさん(中島註:林あまり早坂類、干場しおり)がニューウェーブと呼ばれたいなんてまったく思っていないと思う」などと応答した

というものである。細見は、主に加藤の⑤の発言から

ここでも女性が人間扱いされることなく『天上の存在』として人間界から排除されている。しかも女性だからニューウェーブではないと言ってしまっている。ニューウェーブに男女は関係なく誰と誰がいて誰がいないかが問題で、女性だからいるとかいないとかいう言説はジェンダー論に照らし合わせるまでもなくあってはいけない

と加藤発言の問題を指摘している。細見のこの一節については読者諸氏も同意できるところだろう。


しかし、細見はこの直後、千葉の発言を指して「だから千葉の質問自体がもうすでに愚問」と、千葉を不当に貶めている。この一箇所だけでも、細見がこのトピックに対して文脈(コンテクスト)を十分に検討できていないことがよく分かる。

千葉聡「ニューウェーブで男性四人の名前はあがりますが、女性歌人で同じように考えられる人はいませんか」

発言録全文を読めば容易にわかることだが、シンポジウム冒頭で「ニューウェーブは存在したのか」(加藤)「ニューウェーブという言葉はいろいろなかたちで使われていたと思う」(荻原)と述べられるほど、短歌における「ニューウェーブ」という語やその対象、概念の内実は、加藤や荻原のいう「男性4人」の当事者たちにすら共有・統一されていない。にも関わらず、加藤らは「ニューウェーブに参与する人間は男性四人である」と断定的に述べる。


ある文学上の運動とその概念が歴史的に重要であり、後世に残すべきであると(誰かが)判断する場合、一般的に「ある人物たちが自ら概念と作品を提示することで、フォロアーを得て運動化する」か、「その運動やその内実としての概念が検討され、内実に基づいて作品を再評価し、最後に、概念や運動を代表する人物の名前が挙がる」――という手続きのいずれかが取られるべきだろう。「運動」とその「概念」、それらを示す「作品」は、時間の前後があっても、いずれもが十分に充実していなければならない。


加藤や荻原らが行った「ニューウェーブ運動」は確かに前者の手続きとして進められたのかもしれない。しかし、加藤らは当初の運動開始以降、すぐれた――あるいは注目を集めた作品を数多く発表したが、「ニューウェーブ」という概念を、統一的な形で十分には充実・確定・共有できなかった*17。にも関わらず、現在になってなお、「ニューウェーブ」という概念の充実を十分に図ることなく、加藤は属人的な面から「ニューウェーブ」を定義した*18。属人的にニューウェーブの定義を図った場合であっても、他の者には当てはまりようのない共通項が感じられたならば、すなわち運動としての強度が感じられたならば、誰も異議を申し立てはしなかっただろう。――しかし、多くの歌人にとってはそうではなかった。だからこそ、「ニューウェーブ三十年」というイベントの参加者は、そこで概念の充実・確定・共有が図られると期待していたのだ。ただ、そうはならなかった。


このような手続き上の不備があるからこそ、加藤の態度から、千葉は男性優位主義的あるいはホモソーシャルな傾向という(まさに「コンテクスト」の)可能性を看て取り、わざわざ「男性四人の名前はあがりますが」と前置きしたのだ(これが手続き上の不備ではないのだとしたら「短歌におけるニューウェーブは、文学的な概念や運動ではなかった」と考えるほうが短歌史分析のアプローチとして効率的だ)。


このように、細見は千葉の「ハイコンテクスト」な発言を読み解けていないにも関わらず、それを「愚問」呼ばわりしている。千葉や、加藤を含めた発言者に対する礼を失しているのみならず、細見が評論中で「コンテクスト」を云々する資格が疑われる要因となろう。

細見評論の自己憐憫

細見評論における自己憐憫についても触れておこう。細見は評論中にわざわざ

ここまで偉そうに書いてきたが、筆者も六十を過ぎたオッサンである。ジェンダー的には最も要注意で嫌われまくる年代であり性別だ

と書いている。気の利いたジョークのつもりかもしれないが、評論としてはその品位を下げてしまうただの自己憐憫ナルシシズムの発露でしかない。
この記述の後に「自分ではジェンダー観のアップデートがある程度できたとこれでも自負している」とも細見は述べるのだが、先の一文だけでも細見のジェンダー観がちっともアップデートできていないことがよく分かる。ある文章の執筆者が60代男性かどうかなど、その文章の是非の判定に関わらない。60歳を過ぎた男性だからといって、ジェンダーセクシャリティについて配慮しない者ばかりではあるまい。ましてや、「最も要注意で嫌われまくる年代であり性別だ」などと、他者の、自身への見方を断定的に記している。すなわち、細見はこの自己憐憫を通じて、結果的に「60歳を過ぎた男性であればジェンダーセクシャリティといった概念を重視していないだろう」というジェンダーバイアスを自ら晒したに過ぎない。そのような差別的バイアスこそ、「ジェンダー」やその理解に向けた態度とは相容れるものではないはずだ。
一般的にいって、他人の人格や尊厳、人権を不当に害する言動は、年齢や性別に関わらず、この自由民主主義社会で社会生活を営む上で看過されるべきではないだろう*19 *20


細見が「我慢強く諭してくれたら」と、他人に責任転嫁を図るのも適切な態度ではない。少なくともこれまでの自身の言動に責任を持った大人の発言だとは、私には思われない*21

瀬戸夏子「死ね、オフィーリア、死ね」について

瀬戸夏子は角川「短歌」2017年2~4月号の時評として「死ね、オフィーリア、死ね」前編・中編・後編を記した。
honto.jp
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瀬戸時評に対する細見評論中の見解は、細見のジェンダー観の貧しさのみならず、読解力と論理構成力の低さ、短歌史への無理解をよく示している。
たとえば、細見評論には「思えばジェンダーを巡る騒動はこの瀬戸の時評以降」という記述がある。ここから推測するに、折口信夫「女流の歌を閉塞したもの」、近藤芳美「女歌への疑問」、葛原妙子「再び女人の歌を閉塞するもの」、阿木津英や大田美和らの営為など、短歌の歴史や文脈が細見のなかでは存在しないことが窺える。ジェンダーセクシャリティに関する問題・騒動は瀬戸時評以前にも度々起こってきたにも関わらず。

フェミニズム論じ面接室を出て教授は男ばかりと気づく(大田美和)

未来短歌会の会員である大田美和の、第一歌集『きらい』(1991)から一首引いておこう。

フェミニズム論じ面接室を出て教授は男ばかりと気づく

英文学者である大田が第一歌集刊行前――大学院の入学に向けた面接・口頭試問だろうか、フェミニズムを(文学理論の一部としてであろう)論じた。面接を終えてようやく、自分の合否を決定する立場の者が皆男性だと気づいた、という歌である。決定権を持つ、権力・権威を有する者が男性で固められてきたという構造を描出しており、その背後にある失望や絶望については私が殊更に述べるまでもなく、読者諸氏に伝わることと信じる。そして、この構造は現在まで保持されてきたのだ。
大田の歌と、瀬戸時評には、まさに「構造的な男性中心主義」を批判する共通項があると看取してよいだろう。

細見評論は瀬戸時評の要約が不適切

細見は瀬戸時評を

歌壇の男性中心主義を痛烈に批判した。言いたかったことはただ一つ。歌壇の中心を担う歌人が圧倒的に男性歌人に偏っていて、男性歌人が男性歌人を高く評価するという連鎖に陥っていき女性歌人が無意識に除外されているということ。つまり女同士でしかわからないことが抜け落ちていき、男同士で分かり合えることは評価されるという偏った評価になってないかという指摘。

とまとめているが、この要約も重大な間違いが多く、瀬戸の時評が読めているとは思えない。


細見評論の「歌壇の男性中心主義を痛烈に批判した。(中略)歌壇の中心を担う歌人が圧倒的に男性歌人に偏って」までは、瀬戸時評の前編にある

前者(中島註:男性歌人)にくらべて、後者(中島註:女性歌人)は、歌壇において、あきらかに冷遇されている。(中略)なぜそんなことが起こるかといえば、答えは簡単すぎるくらいに簡単で、歌壇の中心的な登場人物が圧倒的に男性歌人に偏っているからだ(短歌人口における男女比率……にも、もちろん、拘らず)。

*22

という記述の要約として妥当であり、「男性歌人が男性歌人を高く評価するという連鎖に陥って」も瀬戸の記述から想像できよう。
しかし、細見のいう「女性歌人無意識に除外されている」*23ことは瀬戸の記述からは導出できない。むしろ、瀬戸が時評後編で書くように「超ジェンダー後進国の日本では、女性にとってそこから表現しようとすればするほど、圧倒的に男性有利の社会構造のなかにとらわれ、必要以上にもがかなければいけない」こと、特に「男性有利の社会構造」であり、それが反映された「男性有利の歌壇構造」が瀬戸時評連載の最大の焦点なのであり、個人の意識の有無が問題なのではない。「女同士でしかわからないことが抜け落ちていき、男同士で分かり合えることは評価される」などと、瀬戸の指摘からは全くズレた、いわば「歌壇のホモソーシャル性」、あるいはそれ未満の「縁故主義*24に細見が問題をすり替えてしまっている。細見は評論中で、このような話題のすりかえをたびたび行っているが、その意図も論旨も全く不明瞭である。


たとえば、瀬戸がわざわざ「超ジェンダー後進国の日本」と書いているのに、細見はジェンダーの問題をOECD加盟国の学習到達度調査の、一項目である「読解力」の国際比較・男女間比較の問題にすり替えている。このすり替え自体が唐突で、細見が自説の何を補強したいのかすらさっぱりわからず困惑してしまう。

細見評論はジェンダーに関する指標を無視している

まず、瀬戸の見解を補強しておこう。細見が参考文献として挙げている牟田和恵・編『改訂版 ジェンダースタディーズ』(大阪大学出版会、2015)P.196~197には、コラムとして「ジェンダー平等を測る取り組み ――日本は17位?、それとも102位?」が掲載されている。

改訂版 ジェンダー・スタディーズ (大阪大学新世紀レクチャー)

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  • 発売日: 2015/04/01
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このコラムで紹介されているように、ジェンダー平等を国際的に測定する指標は主に、国連開発計画(UNDP: United Nations Development Programme)が発表する「ジェンダー不平等指数」(GII: Gender Inequality Index)と、世界経済フォーラム(WEF: World Economic Forum)が発表する「ジェンダー・ギャップ指数」(GGI: Gender Gap Index)がある。前者は最新発表(2019年発表)で162か国中23位、後者は最新(2019年12月発表)で前年からさらに順位を下げて153カ国中121位となっている。
www.gender.go.jp
最新の内閣府男女共同参画局が公開している「共同参画」2020年3・4月号でもGGIの紹介のあとにGIIが紹介されているように、日本のジェンダー平等について検討する上ではGGIのほうがより適切であると言える。
www.gender.go.jp
*25


細見が評論中で挙げた学力到達度調査(PISA)にあわせるならば、GGIの日本の順位はOECD加盟36か国(当時)中、下から二番目である。日本は男女格差が極めて大きく、「超ジェンダー後進国」といって差し支えない。
なお、この調査は前述のとおり、細見が参考文献として挙げた『改訂版 ジェンダースタディーズ』でも言及されている……にも関わらず、細見がこの調査について言及していないことに私は強い違和感を持つ。

細見評論のPISA解釈も間違っている

細見が言及した学習到達度調査(Programme for International Student Assessment:PISA)について。この調査は3年に一度実施されており、細見が挙げた2012年調査の後、2015年・2018年の調査結果が公表されている。細見はPISAの調査結果を何らかの形で改変した数値*26 *27を元に、各項目の男女比較を試みているが、細見自身が「読解力はどこも女子が優秀」というように、読解力の項目は全世界で、2012年・2015年・2018年のいずれにおいても「調査参加国全てにおいて女子が男子よりも得点が高く、その差は統計的に有意である」(国立教育政策研究所による要約より引用)。しかし、2012年の調査では、読解力の項目では「日本は(中略)男女差は小さい方から八番目」であって、2015年・2018年の調査でも同様である。


細見は「15歳女性の読解力が15歳男性より高い」と示した。しかし、PISAの結果を適切に踏まえれば「日本の読解力は男女差が他国と比べて比較的小さい」*28のであって、細見のいう

日本など東洋では、女性に学問は必要ないとする儒教道徳が長い間力を持っていて、無意識に高等教育から女子が排除されていた期間が長かった

すなわち、女性が十分な教育を受けられなかったという話題は、いずれにしても論理構成上前後と繋がっていない*29。また、段落中の

この東洋と西洋の差はなぜ起こるのか。

という東洋と西洋の比較を図ること自体が、細見評論にどういう妥当性・説得力をもたらすものだと考えていたのか。甚だ疑問である。
細見が瀬戸時評から離れてPISAの調査結果を扱うならば、せめてPISA調査書のニュース*30や日本語訳くらいには直に当たっていただきたい。


まして、細見の「今ではたとえば最難関と言われる医学部の女子比率は四割近いという。隔世の感がある」という記述を見ると、細見の時空では東京医科大学をはじめとする複数の医科大学・医学部の入学試験での、性差別的な得点操作事件が存在しなかったことになっているらしい。また、医科大学・医学部の女子比率と、PISAの読解力の結果がどのように関わるのかも全く示されていない。全体として論の立て方が考慮されておらず、さまざまな話題が思いつきのままに雑に並べられているのではないか、とすら思われる。
ja.wikipedia.org


細見評論で瀬戸時評を扱う妥当性がない

瀬戸夏子の時評は、日本社会あるいはその縮図としての歌壇において、男性中心主義的な構造が温存されていることを指摘したのであり、そこに細見が学習到達度調査の男女差をぶつけたところで、論の構成になんの説得力も持たせようがない。


細見の言を最大限好意的に読むならば(いわゆる「迎え読み」をすれば)、「義務教育を終える十五歳の段階では女性の読解力のほうが高いが、それにも関わらず、女性は十分な高等教育を受けられていない。同様に、短歌においても女性歌人のほうが優れた短歌を作っているが、それにも関わらず、女性歌人は十分な評価を受けていない。ここには相似的な関係性がある」という仮説を細見は述べたいのかもしれない……と想像はできる。ただし、この細見の仮説が成立するには、その前段として「PISAの調査にある読解力が高いほど、優れた短歌が創作できる」仮説の実証、「より高い教育を受けた者が、より優れた短歌を作る」仮説の実証、「優れた短歌を測定可能である」とする仮説の実証などが必要になる。――この一つ一つの仮説の検証だけで十分に一本ずつ評論が書けるレベルのトピックである。仮に、細見が私の「迎え読み」仮説を意図していたのだとしても、瀬戸時評とPISAの結果を併記するだけでは一切説得力を持たない。細見評論全体のなかでは、瀬戸時評を引く妥当性も見受けられない*31


以上のように、細見は参考文献や統計データをまともに読んでいないし、読めていない。論理構成もデタラメであり、読者諸氏に対してひどい誤解を与える評論であったといってよいだろう。前掲書の斉藤弥生のコラムにあることばを、細見評論に捧げてこの項を終える。

国際比較統計は世界のなかでの自国や研究対象とする国の位置を理解し、その課題を見つける上で役立つが、その解釈には十分な注意が必要となる。

補遺:瀬戸夏子「死ね、オフィーリア、死ね」と〈原罪〉

瀬戸時評前編から先程引用した箇所「歌壇の中心的な登場人物が圧倒的に男性歌人に偏っているからだ」の後、こう続く。

そんなことに気づきもしなかった鈍感な人も、うすうす気づいていて知らないふりをしていた人も、それは仕方のないことだと居直っている人も、わたしのこの文章が言いがかりだと感じている人も、そもそもわたしが何を言っているのかわからない人も、わたしに言わせれば、性別を問わずに男性歌人である


もちろん、傍点*32が付してある以上、これが生物的な「男性」として生まれた歌人という意味と捉えるべきではない。瀬戸時評後編では塚本邦雄を「女性歌人」と呼ぶように、いわゆる「男歌」「女歌」の系譜が存在していることを念頭に置くべきだろう。とはいえ、瀬戸のこの「男性歌人」という呼称を、私(中島)は、首肯はできない。


というのも、「男歌の系譜に連なる歌人」、「社会的に男性として生まれた人」、「旧時代の支配的な人々」、「ただの無自覚な人」など(それらは重なり合いもするのだが)までを「男性歌人」とおおきく一括りにしてしまうことで、「男性」として生まれ生きる人々を原罪化しかねないからだ。その態度は、旧時代の支配的な人々が、「女性」を原罪化し、女性として生まれ生きる人々を、ときには女性自ら抑圧してきた態度と何ら変わらない。


もちろん、瀬戸は構造的な問題について言及するために、「男性」を問題にしなければならないのはわかる。具体的な言動を批判するのみでは、構造的な問題の解消になかなか至らない。ジョージ・フロイド氏が死に至るまでの警官の行動のみを議論の俎上にあげるだけでは、人種差別という構造的な問題の解消にならない。他方で、たとえば――あくまで「たとえば」――、何らかの被害に遭ってしまい、それに苦しむ人が、その加害者や傍観者のうちの一属性を強く憎む気持ちもわかる。当然、その背後にはジェンダー的不公正のような、社会構造に起因する問題もあるだろう。


ただ、瀬戸がここで、男歌の系譜の歌人と、権力志向者と、無自覚な人などなどをひとくくりに「男性歌人」と呼んでしまうと、瀬戸が時評前編で指弾した*33「言われてしまうと、だまっちゃう」という状況を招来してしまうのではないか。「男性歌人」の態度の是非を問い尽くす前に、「〈男性〉であることが原罪だからしょうがないじゃない」と、男性が「男性」として生きることの社会的意義や困難、あるいは、医学部入試における得点操作事件のような男性の〈ゲタ〉・容易さと向き合わずに済む状況・環境・構造を、結果的に温存してしまうのではないか。そして、それは瀬戸が時評に望んだ未来ではないだろうと想像する。


私が「ジェンダー」や「セクシャリティ」「フェミニズム」「権力構造」といった語を用いて文章を書けるのも、「男性である」という属性が(少なくとも言論の場では)原罪として問題視されないことを想定し、信じているからにほかならない*34
たしかに、男性が悪劣な犯罪を行う場面は多い。女性が被害に遭う場面も多い。「悪質な煽り運転の加害者のうち男性が96%」であるというし、いわゆる「御堂筋事件」に連なるような性犯罪が2019年になっても繰り返される。
www3.nhk.or.jp
(↓のリンクは朝日新聞オンライン版の記事ですが、性犯罪に関わるものです。リンクを踏まれる方は事前に十分な注意をお願いいたします)
https://www.asahi.com/articles/ASN6M5CR9N6HPTFC00Y.html
こういった事態を〈私個人として〉嫌悪感を持つし、「絶対にいやだ」「こういうことが起こらない世界になってほしい」と切に願う。問題ある言動を目撃してしまったならば、私はそれを(問題ある言動をする人の属性を問わず)私個人として止めたい*35
その一方で、〈男性として〉嫌悪感を持ったり、願ったりすることは私にはできない。私が〈男性〉であるという属性そのものが原罪として問われるべきではないし、〈男性〉であるからといって(〈男性〉を代表するような形で)反省の弁を述べたり、自らの言説に説得力をもたせるのも不自然だ。「悪質な煽り運転の加害者のうち男性が96%」であることが「男性の96%が悪質な煽り運転の加害者」を意味しないように、〈男性〉という属性を持つことが問題視されたり、重要視されたりするべきではない。


瀬戸自身が時評後編で書いたように、瀬戸の時評「それ自体の論旨はすぐれているということを免罪符にして」、瀬戸の「男性歌人」という表現が一般に流布することを、私は望まない。(「男歌」「女歌」という、いわば、一部言語の「男性名詞」「女性名詞」のようにやむを得ず一般化してしまった固有表現も仕方ない……いや、なるべくならば改めてほしいが、当面仕方がないとしても、それ以外の)ある事物について男女の別を比喩的に用いることを、私は望まない。
本稿全体が、男性中心社会を温存するような頑強性・復元力として機能してはならない。この補遺は、瀬戸時評を批判するものでもない。この補遺は、「男性歌人」の、「旧時代の支配的な態度の人々」のための逃げ道ではない。むしろ、「旧時代の支配的な態度の人々」が〈文学〉の美名へと逃げる道*36を塞ぐためのものである。
男性社会中心社会へのバックラッシュ(揺り戻し)を望まない。むしろ、本稿が、「旧時代の支配的な態度の人々」が数々の不公正に向き合うためのきっかけになることを望む。本稿が社会の流動性・可変性・平等性・公正性をわずかなりとも高めることを望む。どんなジェンダーセクシャリティ、どんな属性を先天的に/後天的に、意図して/意図せず持っていても、誰も原罪を負わない社会を望む。

(7月8日22:00に追記)補遺に関する注記:瀬戸時評における堂園発言の引用は適切か

本稿のこの補遺について、重要な論点が抜け落ちているというご指摘をいただいた(ありがとうございます!)。私はこのご指摘をいただくまで、細見評論の問題点を整理することに注力していたため全く失念していたことを関係諸氏・読者諸氏にお詫び申し上げる。


それは「瀬戸時評における堂園昌彦の発言引用は適切か」という点であり、私は「不適切である」と考える。当時為された堂園と瀬戸のツイートについてはTogetterにまとまっている。
togetter.com
その中でも特に重要なのはこのツイートだろう。
https://twitter.com/dozonomasahiko/status/827798862509137920

【8】2点目。「言われてしまうと、だまっちゃう」について。この時評の文脈では、まるで「女性の歌」に関する反論に対して「だまっちゃう」ように読めますが、瀬戸さんが省略してしまった元のブログの直前の部分を読んでいただければわかるように、これは「女性の歌」に対してのことではありません。

瀬戸が堂園の発言として引用したブログ記事はこちら。
tankakou.cocolog-nifty.com


ブログ自体の、「言われてしまうと、だまっちゃう」の前後を引用しておこう。「野」は野口あや子、「堂」は堂園昌彦、「五」は「五島諭」の発言をそれぞれ指している。

野: え、それは自分ではちょっと没個性かなあ、と思ったんですけど。母の歌だったら、

  • 真夜中の鎖骨をつたうぬるい水あのひとを言う母なまぐさい

の方が特徴が出てないですか?
堂: うーん、僕としてはそちらの歌の方が個性がない気がしますけど。個性がない、は言いすぎだな。いい歌だし、他の人にはたぶん歌えないけど、その歌の場合、面白さがずいぶん散文的な気がする。つまり、なんとなく言葉で説明できるかなって思う。この歌は、自分の恋人のことを話す母に性的な様子を感じて、その微妙な感受が嫌悪につながる、という感じですよね。それを「なまぐさい」で表現している。なんというか、ある種分析できる。
野: ふむ。
堂: でも、それに対して、「あなたの娘を売り飛ばしたい」とか「白線の内側で夢を待つ」とかは、うまく分析できなくて、作者としてもよく分からないまま言葉が発せられている気がする。この分析不可能な感じとか、定型のリズムと感情が結びついている感じ、よい意味でリズムに言葉を言わされている感じ、とかこそが定型詩の良さだと思うので。
五: 最終的によく分からないところに行かないとね。
堂: まあ、この話は、僕はそうだ、に過ぎないし、「分析できないのはお前がその歌をうまく読めていないだけだ」、と言われてしまうと、だまっちゃうんですけど。
五: どうですか?
野: なんだかすごく面白い気分になってます。
堂: そうですか、それはよかった。
五: そうだ、では、そろそろ野口さんの好きな歌人の話をしましょうか。どんな歌人が好きですか?

このように、前後の文脈・コンテクスト(ここでもまた「コンテクスト」である)から考えると、堂園の発言は「女性の歌」全般について述べたものではないことがわかる。


もちろん、瀬戸時評でもそのように書きはじめてはいる。瀬戸時評中の、堂園発言の引用前後を引用してみよう。

そして堂園は、(中島註:野口の)〈母の書くメモを幾度も折りたたみ白線の内側で夢を待つ〉も「印象に残った」とコメントしているのだが、その発言に対して、野口自信は、母についての歌ならば〈母の書く~〉は「没個性」で〈真夜中の鎖骨をつたうぬるい水あのひとを言う母なまぐさい〉のほうが「特徴が出ている」のではないかと疑義を呈しているのだが、それに対して、堂園は堂園なりの意見を誠実に述べている。しかしながら、そののちの、

堂: まあ、この話は、僕はそうだ、に過ぎないし、「分析できないのはお前がその歌をうまく読めていないだけだ」、と言われてしまうと、だまっちゃうんですけど。
五: どうですか?
野: なんだかすごく面白い気分になってます。
堂: そうですか、それはよかった。

というくだりが、あからさまに典型的な、男性歌人的態度でがっかりする。簡潔に言うと「言われてしまうとだまっちゃう」というフレーズだ。(中略)
「女の歌って結局のところよくわからない」「みんな一緒に見える」という趣旨の男性歌人の不用意な発言に出くわすたびに、わたしは、その都度、ケースバイケース、さまざまな女性の歌について、意見を発してきた。


ここで問題になるのは、堂園の発言「言われてしまうとだまっちゃう」は、

  • 野口あや子が作った特定の歌に対する発言と解釈すべきか
  • 「女の歌って結局のところよくわからない」「みんな一緒に見える」という趣旨の発言と解釈すべきか

という解釈である。私は前者の解釈のほうが妥当であり、「『女の歌って結局のところよくわからない』『みんな一緒に見える』という趣旨」という解釈は拡大し過ぎではないか、拡大・敷衍するならばより丁寧な記述・分析が必要だったのではないか、と考える。瀬戸時評のこの箇所の引用は、もともとの発言の文脈を歪めたものになってしまっている。


この論点を看過すべきではなかった。ご指摘いただいた方に重ねて感謝申し上げる。
(追記ここまで)

小佐野弾『メタリック』について

細見は、「最後にセクシャル・マイノリティについて。セクシャル・マイノリティを語らずしてジェンダーは語れない」と放言して、評論の終盤を語り始める。この発言には細見評論のジェンダー理解の浅薄さがよく現れているが、先へ進もう……。

ママレモン香る朝焼け性別は柑橘類としておく いまは(小佐野弾)

細見は、小佐野弾『メタリック』中の

ママレモン香る朝焼け性別は柑橘類としておく いまは

という一首を引用して次のような評言を付す。

この歌はジェンダーの壁を軽々と越えてくるジェンダーフリーな歌といえる。〈性別は柑橘類〉はあらゆるジェンダーを網羅できる普遍性を秘めている。すべてのジェンダーを柑橘類と暫定することはとても素敵なことだ。

この記述からも、細見はセクシュアル・マイノリティへの理解が大事だとは思っていないことが窺い知れる。セクシュアル・マイノリティであれ他のマイノリティであれ、その人個人がそのままで尊重され存在することが現代社会において肝要なのであり、「すべてのジェンダーを柑橘類と暫定」などという全体主義的解釈は、ジェンダーセクシュアリティを尊重する立場から導出できるものではない。そのような全体主義はむしろ、個々人の尊厳・存在を尊重する立場からは憎まれるべきものであり、細見の解釈は「素敵」どころか、グロテスクかつマジョリティの暴力性に溢れた解釈である。「ジェンダーフリー」という概念を根本的に履き違えているらしい。


なお、小佐野の「ママレモン」の歌における三句目以降は、作者が自身の性別を自己規定することへの〈ためらい〉があり、それでも、なんらかの呼称を付けねばならない局面に迫られて「柑橘類とし」た、と解釈するほうが妥当であろう。その〈ためらい〉のあらわれが一字空けと「いまは」という表現である。ここを読み落としてしまっては歌の解釈としても不十分だ*37。しかも、作中主体が「柑橘類」と暫定的に自己規定したのは、1960年代から使われている食器用洗剤ママレモンに触発されてのことである。比較的新しいジョイやキュキュットなどではない。レモンの香りがする消臭力でもアロマでもない。どこか古くて懐かしい印象のある、それでも50年以上も使われているママレモンでなければならない必然性があったのだろう。ママレモンが香るのも食器を洗っているからであろうし、しかも朝焼けが起きる、日の出の時間帯である。早朝に食器を洗いながら、性別のありようについて考えている、という事態を考慮すべきだ。
ja.wikipedia.org

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小原奈実「沈黙と権力と」と、細見評論との大きな違い

続いて、細見は

性の多様性と短歌ははたして相性がいいのか。短歌は字数が少ない故に省略されていることが多い。その省略されているのは無意識に共有化されたマジョリティの世界だ。

という疑問を呈する。細見評論のこの段落は短歌の解釈としても、現代社会に照らしても浅薄である。


細見評論における「省略されているのは無意識に共有化されたマジョリティの世界」と近い内容を、小原奈実が「沈黙と権力と」(角川「短歌」2019年10月号、P.67)で書いている。

このように、マイノリティであることを示すためには余分に説明が要るというのは言語表現において一般的な現象である。しかし短歌においてはマイノリティ性を書き加えることによって音数の余裕が狭まるだけでなく、その部分が蛍光ペンを引かれたように浮かび上がり、歌の読みを大きく規定してしまう。というのは、短歌に込める情報のうちにも「地の情報」と「特殊な情報」とがあり、後者に対する定型の耐容量はさらに制限されているように思われるからだ。連作によって説明のコストを分散させる方法もあるが、それはつまり一首の外部からの文脈に頼ることになるし、かといって説明を省けば、歌はマジョリティの了解の範疇へと回収されるだろう。

私は小原の見解にまったく賛成する。細見評論の「省略されているのは無意識に共有化されたマジョリティの世界」という言説も、小原の評論に沿って受け止めるならば理解できる。


にも関わらず、細見評論の当該段落について「浅薄だ」と判断するのはここに続く記述である。

結果、従来の男女の相聞のみが短歌では詠まれやすくなる。だが、この歌集では、マイノリティの世界を描いているにもかかわらず、愛好家しか読まないBL短歌の枠を超え、ジェンダーの壁を突き抜けんばかりの筆力を感じる。(中略)相聞の深いところに行きついて初めて短歌の本領が発揮できるのかもしれない。言うなればマイノリティでも他のジェンダーにはわき目もふらずに自分のジェンダーの奥深く埋没していくことでこそ短歌としての本分に行き着けるのか。性の多様性と短歌はこれからどう組み合いどう展開されるだろう。ひょっとしたら相性が悪いのかもしれない。

ここに出てくる主な問題点は次のようなあたりだ。

  • 「従来の男女の相聞のみが短歌では詠まれやすくなる」

→本当だろうか?そもそも短歌における相聞は、短歌全体のうちの一分野・一技法に過ぎないので「従来の男女の相聞のみが短歌では詠まれやすくなる」ことはないだろう*38

  • 「愛好家しか読まないBL短歌」

→実際のセクシュアリティに基づき、現在はマイノリティであるセクシャリティの一つを選んだ・選ばざるをえなかった人々の短歌と、BL短歌を混同・併置するのは議論として雑だ*39。また、BL短歌について「愛好家しか読まない」というのもかなり偏屈な思い込みであろう。雑誌「共有結晶」はまさに、BL短歌の創造・解釈を促すのみならず、BL短歌の読解の回路が、既存の短歌の読解の回路を押し広げる可能性を示したものではなかったか。
bltanka.booth.pm

セクシュアリティにおけるマジョリティ/マイノリティの話題に、社会的な「ジェンダー」の話が出てくるのは唐突で、論理一貫性を欠く――つまり、どうも細見はジェンダーセクシュアリティについて整理がついていない。評論という体裁の文章で「ジェンダー」や「セクシュアリティ」という概念に触れるならば、細見自身のの理解でよいので、それらの概念について冒頭できちんと説明してほしかったところだ。

  • 「相聞の深いところに行きついて」

→ここに前提されているのは「相聞の深いところ」=「セクシュアリティジェンダーによらず、何らかの愛情関係と誰かと結び、それを相聞歌として表現することの基底性・共通性」という程度の意味だろうが、これでは結局「愛情関係を結ぶ」というマジョリティの再形成を試みているだけである。たとえば、アセクシュアル*40の人々を結局マイノリティとして排除しかねない。

  • 「言うなればマイノリティでも他のジェンダーにはわき目もふらずに自分のジェンダーの奥深く埋没していくことでこそ」

→(「マイノリティ」について、セクシュアリティの話なのか、ジェンダーの話なのかがやっぱりさっぱり分からないが)細見はセクシュアリティジェンダーというものを、何か「自由意志で選択できるもの」だとでも考えているのだろうか。「他のジェンダーにはわき目もふらず自分のジェンダーの奥深く」とは、「みずからのアイデンティティや社会的・文化的役割を見つめ」程度の意味だろうが、細見は自身が書いた「六十を過ぎたオッサン」という現在のアイデンティティや社会的・文化的役割以外に「わき目」のふりようがあるのだろうか……。「わき目」のふりようがないから、自己憐憫を開陳したのではないのか……。

  • 「短歌としての本分」

→ここまで「短歌としての本分」については語られていないため、唐突であり、論理的説得力を持たない。


小原が

短歌定型の短さに留まりながら、言葉に内在する社会的権力関係への依存度を低めることはできるだろうか。作歌において或る権力関係は利用し、別のものは拒むという姿勢は都合が良すぎるだろうか

と、マイノリティがマイノリティとして表現する可能性を(「都合が良すぎるだろうか」と懊悩しつつも)模索するのに対し、細見評論の見解は「マイノリティ同士の共通項でマジョリティを形成すればいいじゃない」といった、既存の権力構造を追認するものでしかない。


そもそも人は、セクシャリティに限らず、出自や経験、身体や職業など様々な要素・属性を持って生きており、その諸要素・属性も、各人の意思も等しく尊重されるべきである。各人には各人の生があり、一つとして誰かと同じ生はない。その一回性の生に基づき、各人のことばと技法で短歌に写しとることが――未来短歌会もその系譜に置かれるところの、「アララギ」的な――〈写生〉ではなかったか。ある人物がどのような要素・属性を持つとしても、ある属性においてはマイノリティであるとしても、一定の規模で扱われる意味・文脈を踏まえつつ、ことばとことば、文脈と文脈を組み合わせることで短歌を詠み、短歌を作っている(すなわち、創造性を発揮している)のではないのか*41


細見の「性の多様性と短歌ははたして相性がいいのか」という問いは、ことばや短歌、〈写生〉や創造性の本質から考えると、細見評論における設問も解釈も、その検討過程も全く的外れであり支離滅裂である。

最後に

細見評論の問題点総括

細見の評論「ジェンダーの壁」中に書かれた4つの論点を見てきたが、ここまでご覧いただいたとおり、

  • 読者が評論内容の是非を判断できるだけの材料が、評論中では提供されていない。
  • 歴史や文脈を読者に対して十分に共有されていない。
  • 文章間の論理構造が成立していない。
  • 話題・論点もたびたびすり替えられている。
  • それぞれの論点で理屈が通っていないだけでなく、4つの論点の間に「ジェンダー」という用語以外になんの共通項もない。加藤の「ミューズ」発言と、「ニューウェーブ三十年」イベントでの男性中心主義的発言は、加藤という登場人物に関わりがあるが、後者が前者の問題を理解する上で補助線となる程度の話である。
  • 加藤の言動と、瀬戸時評や小佐野のセクシャリティなども関わりがない。そもそも、ジェンダーセクシャリティの区別がついていない。
  • 「この論考では炎上や愚問、愚答を否定的に書いた」というが、いくつかの論点を併置することで最終的に一体なにを描出したいと考えたのかもわからない。*42


以上のように、細見評論は全体の論旨に一貫性がない。歴史をありもしない事柄へ修正し、ありもしないことばに対して他人を賛美・批判している。理屈のとおらない説明を行っている。――よって、細見評論は「評論」として不適当であると結論づけざるを得ない。細見が自身の評論中で書いたように「謙虚に真摯に耳を傾けるべき」ということばを、評論のありよう自体にも向けていただくことを願ってやまない。

本稿の総括

私は、細見評論に対して適切な批判がない場合、「未来短歌会は、人権や尊厳、論理性や読解力を重視しない権威主義的組織である」と思われる可能性に思い至り、未来短歌会会員に申し訳なく思いつつ本稿を記した*43。細見評論や加藤の言動のような、現今の日本社会の縮図とも取れる情況を看過することはできない。なお、細見当人や加藤当人の人格に対して攻撃することを目的としていないことを、読者諸氏にも、細見や加藤にも改めてご理解いただきたい。あくまで、ここで顧みられるべきなのは、「未来」誌上やTwitter総合誌などで書かれたことばのみである。言動は人格を表しているようには見えるが、人格そのものではない。


細見評論のありようや、加藤の問題ある言動に対して私が黙らないのは、私が不寛容だからではない。むしろ寛容であり続けるために、このようにことばで説明してきたと信じる。もし我々がここで黙ってしまえば、ハラスメントや差別という不寛容に対して(「寛容」なのではなく、ただの)無頓着・ルーズな情況を生み、黙認したことになりかねない。そして、いずれは私が、他の歌人が、未来短歌会が、歌壇が、日本社会が、世界が、次の新たな被害を構造的に生み、あるいは我々が被害をこうむってしまう。私はそのような未来を望まない。

*1:2020年7月8日22時の追記の結果。

*2:細見評論をご参照くださる予定がない方は、本記事の記述からその内容を推定してください。

*3:少なくとも本稿は、細見自身当人の望まない読解になっていることだろう。ただ、細見のいう「コンテクスト」を勘案する限り、論立てとしておかしいところは指摘せざるを得ない

*4:実際の表示上は「くりてぃーく」部分が太字になっているが、省略する

*5:〈原稿送り先〉は個人名や当該個人の情報が含まれるため、表示していない。

*6:本稿の発端である、細見評論では加藤治郎の言動について一切言及していなかった

*7:記録としてTwilogのキャプチャ画像を5枚添付する。1枚目と5枚目に無関係な発言を入れているのは前後の文脈を確認するため(すなわち、これらの発言が「短歌往来」連載に関わるものであったとしても、ツイートそのものでは明示されておらず、そう読み得ないことを示すため)である。2~4枚目は水原の(加藤がどこから入手したのかわからない)写真が添付されていたが、ツイート自体が削除されたため、空白となっている。5枚目は本論に関係しないリプライ先を白抜きで消した。)f:id:theart:20200608134924j:plainf:id:theart:20200608134926j:plainf:id:theart:20200608134930j:plainf:id:theart:20200608134941j:plainf:id:theart:20200608134946j:plain

*8:本稿はもともと、「未来」版の原稿とすることを目的とし、未来短歌会会員を読者として想定していた。ブログ公開版は、より広い読者の目に触れる形となるようを再編集する過程で留意したが、そもそも本稿を書く経緯に関わるため、大幅には改変していない。予めご了承をいただきたい

*9:後述する、私の「回顧」でも触れる

*10:当然、細見自身が評論で「そもそもハイコンテクストなツイッターを遡上に乗せること自体がありえないが」と述べたように、当然注意すべき事柄であったはずだ。

*11:7月2日追記。細見自身のツイッターによると「ある特定の人を擁護したかったわけじゃない」とのことである。加藤の擁護でないのだとしたら、この一節に論理的整合性をもってご反論いただきたい。

*12:細見の通常のツイートを見る限り、自身の言動が歴史修正主義的に捉われることに大いに驚くだろう。ただ、意図の有無に限らず、歴史修正主義者や権威主義者の言動に似た言動になることは(細見だけでなく、私の発言においても当然)ありうる。その反省が細見には可能だと信じるから私はこうやって何万字もの文章を書いている

*13:「『ミューズ』は、アンドレイ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』」~というのは加藤の元ツイートのママである。「André」のフランス語の発音をカタカナ表記する場合、「アンドレ【イ】」にはならない。ja.wikipedia.orgf:id:theart:20200610221559j:plainf:id:theart:20200610221942j:plain

*14:本稿を書かねばならない理由の一つに、細見の言説を見る限り、おそらく望んでいないと思われる態度を細見自身が評論中でとっているからだ。たとえば、こういうツイートのように

歴史修正主義者の態度に対する批判的ツイートに寄り添う形で「エビデンス(史実)は十分に上がっている。それを勉強すれば済むことなのになぜしないのだろう。したくないからだ。」とツイートするくらいであるから、細見もまた、歴史修正主義的態度を自身に望んでいない(と信じたい)。それならば、細見にもぜひエビデンスに従って評論を書いてほしかった。細見評論における歴史修正主義的態度を顧みていただきたい。

*15:繰り返すが本稿は「未来」7月号掲載の拙稿を核としたブログ版、である。

*16:以前も書いたが、加藤の言動に対する擁護はどなたからでも大いにやってほしい。ただ、擁護するならば、手続き上適切に、すなわち論理的に擁護していただきたい。私が批判した加藤の言動やその批判理由は本稿本文で挙げた記事群にあるので、せめてそれらに対して理性的・論理的にお応えいただきたい。

*17:ここに、「ニューウェーブ」を運動化するための評論の不足を挙げてもよいかもしれない。加藤の評論集『TKO』は歌壇に対する自己宣伝の要素が強く、穂村の『短歌の友人』もニューウェーブという概念の充実を目的としたものではなかった。翻って、これまでに荻原・加藤・西田・穂村以外によって書かれたニューウェーブに関する数々の記事・評論(たとえば、「短歌研究」1991年5月号の特集「現代短歌のニューウェーブをさぐる」を一読してもわかるように)は「属人的に4人」とするような観方がニューウェーブ初期からも大勢ではなかった。こちらのほうが歌壇全体・多くの歌人にとっての見解と見るべきだろう。
やや異なった切り口となるが、「羽根と根」7号に掲載されていた佐々木朔「思想としての完全口語」はすぐれた枡野浩一論であると同時に、ニューウェーブやライトヴァースの見方を確認し改める可能性を示した評論でもあった。

*18:荻原は「(女性歌人が)なぜニューウェーブのなかで語られないかって話はまた別」と述べているように属人的定義だけでは不十分であることを、加藤に比べると一定程度理解しているように見える

*19:この箇所は一般論を述べており、細見評論が他人の人格や尊厳、人権を不当に害しているわけではない。ただ、論理性に欠け、評論として不適当なだけである。

*20:別に、細見や加藤の内面がどのようなものであろうと、たとえば頑なな男性中心主義を内心に抱いていたとしても、内心の自由がある以上、誰からも咎められることはない。ただし、それをツイッターや「未来」で公にしたこと、「内心の外」にある〈ことば〉や〈文章〉に【した】、その言動が問題なのである。

*21:この自己憐憫のあたりの記述は全般的にひどい。「同年代の特定の男性歌人がバッシングを受け続け、結局我々のスケープゴートにされたことに胸を痛めている」などという記述を読むと、なにから解きほぐせばよいのか途方に暮れる。

*22:元の時評で傍点が付されている部分をブログの都合上、下線とした。以降、下線を付す場合は特段の注記がない限り瀬戸の傍点表現を下線で再現しているものとする。

*23:この下線は中島による

*24:結社や歌壇のホモソーシャル性や縁故主義それ自体は問題がある。

*25:内閣府男女共同参画局の「共同参画」2011年1月号に「(GIIが)国家の人間開発の達成が男女の不平等によってどの程度妨げられているかを明らかにするもの(中略)。保健分野等日本が優れた分野が含まれている結果と考えられますが、(中島註:GIIの結果がよくとも)男女共同参画において取り組む課題は多いと考えられます」とあることからも、ジェンダー平等・ジェンダー公正を考える上ではGGIをより重視することが妥当だとしてよいだろう。www.gender.go.jp

*26:細見が作表したデータは、参考文献である『改訂版 ジェンダースタディーズ』P.158~159の、木村涼子によるコラムに基づいている。木村はPISA全参加国から「全体の傾向をそこなわない形で9か国を抜粋」したとしており、ここから細見がさらに4カ国を抜き出すのはPISA全体の傾向を損なっている可能性がある。

*27:また、細見はPISAのデータを「平均点が五百点となるように計算」と書いているが、木村のコラム文中には「以下の出典より筆者作成」とあるのみで、平均点の具体的操作には触れられていない(つまり、木村は「平均点が五百点となるように計算」したとは書いていない)。木村は「PISA 2012 Results: What Students Know and Can Do」(https://www.oecd.org/pisa/keyfindings/pisa-2012-results-volume-I.pdf)を参照しているが、木村によりかなりの加工が施されているため、細見の「平均点が五百点となるように計算」という記述の妥当性は検証できなかった。細見がどうやって木村の加工過程を特定し、その加工を復元できたのか、後学のためにもぜひ細見にご教示いただきたい。

*28:この分析が、実感にあうものかどうかはさておき

*29:想像で補えば部分ごとには理解できるが、文章全体として理解できない

*30:特にPISAの結果を2020年春の時点で扱うならば(2020年4月号の締切は同年1~2月であろうから、PISAに関心があったならばおそらく当然)、2019年12月に報道された2018年調査の結果で、日本の「読解力」の順位を大幅に落としたニュースに気づいたことであろう。www.yomiuri.co.jpwww.asahi.comwww.nikkei.com「『読解力』の順位が大幅に落ちた」ということは、「過去にはもっと上位にあった」ことが推定されるだろうし、そこから過去の調査に遡れば、細見が言及している2012年の調査は「読解力」の順位が4位と日本過去最高位であることがわかる。この1回の記録だけを見て細見のいう「女性に学問は必要ないとする儒教道徳」「無意識に高等教育から女子が排除されていた期間が長かった」の影響があるのかどうか、と疑問が湧くのは当然であろう。この点でも、細見が自身の挙げた参考文献や統計データを十分に読んだり調べたりしていないことが察される。

*31:細見のTwitterアカウントには「瀬戸夏子さんにびっくりしてまた短歌にのめり込みました。 」と書かれており、細見はもしかすると、なにがなんでも瀬戸の文章を引きたかったのではないか、と同情的に想像する。とはいえ、そのような情熱があるならば、瀬戸の文章についてのみでも評論を書き得ただろうし、部分的に言及するにしてもこんな雑な仕方である必然性は特になかった。もし私のこの同情的想像が合っているのだとしたら、今回の細見評論において細見は、評論としての適切さや読者にとっての整合性より、加藤や瀬戸との人間関係や自身の内的必然を優先したのともいえる。そのような優先順位を〈評論〉というフィールドに持ち込まれては困惑するほかない。

*32:本稿では下線

*33:ここに「堂園昌彦が言ったような」という表現があったが、7月8日夜21:20に抹消。理由は追記参照のこと

*34:ここで私が自身について「男性歌人である」と私が書かない/書けない理由の一つとして、権力志向的な〈歌人〉の存在もある。

私は〈歌人〉を自主的に名乗ることは今後もない。短歌を専らとしない方々や、「中島は歌人と名乗るべき」と述べた幾人かに限ってのみ、である。

*35:単なる経験として述べるならば、痴漢を駅員に突き出したことも何度かある。一方で、痴漢行為を咎めたところ両者から「合意の上だ」と言われてしまったこともある……が、これはレアケースだと信じ、問題ある言動を看過しないよう留意している。
余談でいえば、私は若い頃に男性からも女性からも痴漢行為を受けたことがあるが、当時は誰も信じてはくれなかった。電車内での暴力行為にいたっては、ここ数年でも男女両方から受けたことがある。身長189cmの私ですら被害に遭うのだから、世間一般では、〈弱者〉だとみなされてしまった人々の身に、どれくらいの頻度で起こっていることか……と想像し、恐れる。

*36:たとえば、「ミューズ」発言に対する加藤のこのようなツイート。f:id:theart:20200624122724j:plain

*37:今回の細見評論のように、適切な一貫性もないのに多数の話題を扱った文章において「紙幅が足りなくて十分な説明ができなかった」という言い訳を通用させてはならない。小佐野のこの一首と、それにまつわる議論を検討するだけでも一本の評論として成立したことだろう。

*38:「従来の男女の相聞として解釈される」という意味での「読まれやすくなる」の間違いか、と何度も読み返したが、やはり「詠まれやすくなる」と書かれている…

*39:もちろん、いずれについても貶める意図は私にはない

*40:性的欲求をほとんど、あるいはまったく抱かないセクシュアリティja.wikipedia.org

*41:我田引水に述べるならば、私は「一首」という枠組みが、複数の読解可能性を容れられるようにするよう微力ながら尽くしてきた。第一歌集前半では「一首」の枠組みを広げつつ、連作の中で複数の〈私〉が成立するようにしたのだし、第一歌集後半から第二歌集にかけては、〈私〉というマジョリティの読解と同時に、〈非-私〉の読解を同時に許容できるようにするなど、既存の〈マジョリティの読みの権力〉を利用しながら抵抗し続けてきた、という自負はある。

*42:細見の記述通り「炎上を否定的に書いた」を解釈すれば、「炎上」した加藤の発言か、「炎上」という事態そのものについて否定的に書くべきだ。千葉の質問を「愚問」呼ばわりしたとしても、「愚問〈について〉」否定的に書いたというべきだろう。この記述を文法的に正しく読めば、細見が「愚問、愚答を」書いたと解釈する以外にありえない。細見評論には他にも日本語として不自然な箇所が複数見受けられる

*43:加藤の「ミューズ」発言についても、細見評論が出るまでは「未来」誌上で言及する気は一切なかった。細見評論が出た後も、私が本稿を書くべきかどうか何週間も悩んだことを告白しておきたい。