ニューウェーブと「ミューズ」(「短歌研究」2019年4月号収録)

(2019年12月4日、加藤治郎の一連の問題言動に関する記事に関連し、本稿を公開します。)

短歌研究 2019年 04 月号 [雑誌]

短歌研究 2019年 04 月号 [雑誌]

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  • 出版社/メーカー: 短歌研究社
  • 発売日: 2019/03/20
  • メディア: 雑誌

インターネット上にTwitterというサイトがあるのはもうご存じだろう。140字のなかで「ツイート」と呼ばれる発言や対話をする場でありツールだ。東日本大震災時にも活用され、いまや情報にまつわる社会的インフラの一つといってよい。文字数制限ゆえに興味深い発言や切れ味鋭いジョークが日常的に交わされる一方、配慮を欠いた発言をすれば、批判が殺到してしまう(その状態は一般的に「炎上」と呼ばれる)。
加藤治郎が今年二月十七日に行ったツイートは、あまりに配慮を欠いていた。なお、事前に申し上げておくが、加藤は(少なくとも私がここで指摘する点のいくつかについて、本稿執筆時点では)問題を自覚している。それでもなお、本件を時評で取り扱うのは、それだけの衝撃があり、かつ公益性が高いと思われるからだ。――ここでいう「公益性」とは、短歌の世界で明に暗に、自覚の有無に関わらず、おそらく様々な場面で行われる差別的言動やハラスメント、〈権力〉の発露について、みなさんに再考していただく契機となる可能性を意味する。
本題に入る。加藤は水原紫苑の顔写真とともに、次のようなツイートを行った。

#ニューウェーブに女性歌人はいないのか
水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった
大塚寅彦のような地方都市の男は、イチコロだった
私は田舎者だが、東京の大学に通っていたので多少免疫があった
穂村弘は、水原紫苑の電話友達からスタートしたが、たちまち距離を縮めていった
(2019年02月17日11時33分59秒の投稿。削除済み)

この短い発信に含まれる問題・疑問はいくつあるだろうか。私が気付く限りでは以下の諸点がある。

  1. 水原に対して「ミューズ」という語を用いたこと
  2. 1により、短歌におけるニューウェーブは(「女性歌人はいないのか」という文面に対し)女性を含まないと示唆していること
  3. 大塚を「地方都市の男」と断じていること。
  4. 大塚が水原紫苑に「イチコロだった」、すなわち何らかの好意を抱いていたと断じていること
  5. 4を、大塚自身ではなく、第三者である加藤が(真実か否かは別にして)記述したこと
  6. 地方出身者は(東京=中央に行って「免疫」をつけない限り)好意を抱きやすい、と考えていること
  7. 6を通じて、中央と地方の〈権力-従属〉的関係を再強化していること
  8. 加藤が著作権を持たない画像を公に送信したこと

3から6については、加藤と、水原や大塚との交友関係の中では笑い話で済むのかもしれない。もしかすると水原や大塚自身がどこかで書いている事柄かもしれない。
問題として何より根深いのは1である。短歌や文学を云々する以前の、「ヒトをヒトとして認めていない」という話だ。加藤は、二〇世紀初頭のシュルレアリストたちをふまえ、水原に対して「ミューズ」という語を肯定的に用いたつもりかもしれない。しかし現在ではシュルレアリストたちの――あるいは、当時の(本当に? 今も、ではなく?)社会全体を覆っていた――男性中心主義的な在り様を象徴するものとして批判されている。

シュルレアリストの愛人や伴侶として運動に加わり、制作していた若く才能にあふれた女性たちについて、幅広く論じたフェミニスト美術史家W・チャドウィック教授は、シュルレアリストの女性観の問題点を指摘している。それによると、シュルレアリストたちは女性を彼らの想像力の源である欲望―エロティシズム―と霊感の源泉として崇拝したが、ブルトンに承認され活動に参加しながらも、彼女たちは自立した美的能力を有する芸術家とみなされていたわけではなかった。(中略)霊感の源ともなる美神(ミューズ)であり、「狂気の愛」アムール・フーの犠牲者であり、共産主義がまだ希望でありえた当時の革命の象徴でさえあった。
(野中雅代『レオノーラ・キャリントン』、彩樹社、1997、P.54~55。傍線中島)

レオノーラ・キャリントン (フェミニズム・アート)

レオノーラ・キャリントン (フェミニズム・アート)

  • 作者:野中 雅代
  • 出版社/メーカー: 彩樹
  • 発売日: 1997/10/01
  • メディア: 単行本

このように、女性が男性のシュルレアリストたちに対等に扱われなかった状況を象徴する語が「ミューズ」である。今回の件に当てはめると、佐々木遥がTwitter上で簡潔にまとめているように「ミューズ」という語は

①本人の意思関係なく他者が勝手にカテゴライズするときの言葉である
②女性から人間性や主体性を剥がして客体化し消費する言葉である
③女性を “ミューズ”として評価することで「才能を認められたければ女は一人のふつうの人間であることを諦めろ」というメッセージを発してしまっている


という意味・文脈を含む。さらに補足するならば、「ミューズ」という語を用いたことで、加藤は(実際にどう考えているかは別にしても)「水原の容姿のみで人間性や主体性を剥がした」うえで、「水原を対等な人間、対等な創造者として認めていない」ことになるのである。
同様の「ミューズ」案件についていえば、世間では昨年春、写真家・荒木経惟のモデルをつとめていたKaoRiによる告発がよく知られている。短歌においては「現代短歌」二〇一八年八月号の北村早紀の時評「私を女神にしないで」でも明快に整理されている。
note.mu
gendaitanka.thebase.in

加藤によると、先のツイートは「短歌往来」の連載「ニューウェーブ歌人メモワール」という回想録のためのメモランダムの一部だという。なるほど、当時の加藤にとって水原は「ミューズ」だったのかもしれないし、現在の加藤もそのように回想したいのかもしれない。しかし、言動について問われるべきは本人の意図や現実がどのようであったかではなく、どのような言動がこの現代において実行されたかという点のみである。時代が進むにつれて、社会も発展し、ことばの意味は改められ、様々な概念はさらに整理され、言動として認められる範囲が変化することを見逃してはならない。



この、加藤のツイートが問題となる前段がある。
昨年六月、名古屋で現代短歌シンポジウム「ニューウェーブ30年」を加藤らが開催したが、その様子を収録した記事(「ニューウェーブ30年」『ねむらない樹』vol.1、2018、書肆侃侃房)によると、千葉聡が事前に寄せていた「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」という質問に対し、荻原裕幸は「論じられていないのでいません。それで終わりです」と答え、その後、東直子からの質問に対して加藤は、荻原、加藤、西田、穂村の四名だけがニューウェーブだと断言したという。

短歌ムック ねむらない樹 vol.1

短歌ムック ねむらない樹 vol.1

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 書肆侃侃房
  • 発売日: 2018/08/01
  • メディア: 単行本
確かに「ニューウェーブ」という語の端緒が一般的になった契機は一九九一年の朝日新聞の記事「現代短歌のニューウェーブ」であり、当時の、最も限定された意味での「ニューウェーブ」はその記事で扱われた加藤・穂村・西田三人と執筆した荻原の四人のみを指していたのかもしれない。しかし、その狭義の定義にこだわってしまうと、「未来」二〇一九年二月号の時評で高島裕が論じたように、「(ニューウェーブという)短歌史の果実を自分たち男四人だけで独占しようとしているように見えてしまう」。高島はこう続ける――「この歴史認識上の問題を解決する方法はただひとつ、ニューウェーブの男性歌人も、東本人を含む同時代の尖鋭的な女性歌人も、ともに包摂するような、新たな短歌史的概念を創出することである。東ら、いつも隣にいた女性歌人さえ包摂できないのなら、『ニューウェーブ』という概念自体、たいしたものではないと考えるべきだ」。この見解に、私は全面的に同意する。
www.miraitankakai.com



私は加藤を再度炎上させたいわけではない。炎上が自省を促すわけではないからだ。本件を他山の石として、加藤も、みなさんも、私も、誰かを、対等な人間と扱うことができているか、自身に問い直す契機としてほしい。そして、もし適切でない言動を受けた場合には、泣き寝入りせずに声を上げてほしい。私もそうする。