【本編】加藤治郎さん、あなたは文章が読めない(9)2019年5月:時系列の確認、詩客時評への反応、詩客時評前後の圧力

今回は加藤の5月のツイートについて。450と少なめです。前回の記事の一環で、5月のいくつかの発言も取り上げていましたので、主にそれ以外――詩客時評公開後の話題を扱うことになります。5月の記事は

  1. (表面化している)時系列の確認、詩客時評への反応、詩客時評前後の圧力
  2. 詩客時評前後の、加藤による脅迫(背景の時系列の確認)
  3. 「短歌研究」6月号掲載の、加藤治郎ニューウェーブの中心と周縁」批判

あたりに分けておこうと思います。3つ目は、ニューウェーブという考え方に関わるため、飛ばすかもしれません。

5月4日、詩客時評公開

5月4日、詩客に「短歌時評alpha」と題した時評連載がスタートし、第1回の記事が公開されます。当初は連載を予定していたものの、実際にはこの1回のみで終了となります。時評執筆者は玲はる名、濱松哲朗、中島。執筆者以外から寄せられたTwitter上のコメントがあまり多くないので、記事のリンクにいくつかのコメントを付す形に紹介します。

玲はる名「言葉を読むことと、心を読むことのむずかしさ」

blog.goo.ne.jp
なお、玲はる名=物部鳥奈であることは公になっています。今後言及する際も、当人がその時々に使用している名義を用います。*1

玲の時評は冒頭からかなり不穏な空気が漂います。この記事が作成される経緯については次回、玲のブログ記事と対照させて整理します。

今、私は詩客の方針でこの原稿を書いています。
今回の企画における、Aさんのことを慮った立場からの執筆が必要となるからです。
私個人の意見などに関しては、詩客の方針から外れる部分なので書けません。

濱松哲朗「氷山の一角、だからこそ。」

blog.goo.ne.jp
こちらも公になっていますが、てつろー=濱松哲朗です。*2


中島の観測範囲内では以下のようなツイートが感想として述べられていました。





中島裕介「権威主義的な詩客」

blog.goo.ne.jp
中島の観測範囲内では以下のようなツイートが感想として述べられていました。






詩客時評前後の圧力

詩客を運営する詩歌梁山泊の代表である森川雅美が、執筆者3名に対してどのような圧力をかけたのか、詩客サイト上で把握できる情報のみでひとまず批判します。Twitterや他のブログに掲載された情報を交えての批判は次回以降に行います。


なお、予め申し上げておきますと、詩客について私が批判している対象は、代表である森川と、顧問である加藤のそれぞれの振舞いです(人格は批判していません)。私自身も複数回詩客に寄稿させていただいた身であり、分野を超えた交流というミッションも、これまでの営為についても、最大限の敬意を払っています。そして、詩客というサイトの運営に関わってこられた方々が、短歌部門はもちろん、俳句や詩の部門にもおられると聞いています。詩客全体の営為や積み重ねが無に帰することのないよう、そしてこういった営みがさらに豊かなものにできるよう、本シリーズ記事で批判を展開する次第です。

森川雅美「『企画短歌時評alpha』を始める前に(はじめにぜひお読みください)」

時評3本の前段として、詩客を運営する詩歌梁山泊の代表である森川の記事が掲載されています。
blog.goo.ne.jp

詩客時評掲載にいたるまでの、濱松・中島の指摘

森川の記事は濱松や中島が、詩客時評に対する圧力に言及したことに対応しています。濱松の文章から見てみます。

 ところで、この原稿を渋りかけた理由について、書いておく必要があるでしょう。

 この文章を含む今回の企画に対して、「詩客」短歌部門の顧問に加藤氏が名を連ねていることを踏まえた上で何らかの「配慮」をするように、という主旨の通達が「詩客」主宰の森川雅美氏からあったと、企画担当者から知らされたことがありました。原稿依頼時点では「ミューズ問題を考える」だった企画案も、いつのまにか「ニューウェーブ再検討」にまではっきりと後退を見せていた(結局、正式な企画タイトルはどうなったんですか? 決定事項としては今もって聞かされていないのですが)。表立って「ミューズ」と書いて今回の事件(と言って相違ないでしょう)を取り上げる機会を、私も、他の執筆者も、企画担当者も、あらかじめ奪われた上での、今回の掲載なのです(似たような話が最近、早稲田大学の「蒼生」という機関誌でもあったばかりなので、個人的にはとてつもないデジャヴを食らっています)。

 まさか目の前でこんな忖度を強いられるとは思っていなかった。ここまで立場不均衡を強いているにもかかわらず、身に滲みた権力や差別の構造に無自覚で、自分では地位も権力も無いと嘯く。何だこれは。何も分かっていないじゃないか。

 私たちは何故こんなにも傷つけられ続けるのでしょうか。平等を実践する意志のないまま、ヒエラルキーの上位に安住するものから見せかけの「対話」や「議論の場」を与えられたところで、そんなものは所詮、相手の利益として計上されて終わる。それでいて、こちらはいつまで経っても、無視され、葬り去られ、干され得る存在なのです。なのにどうして、声を上げることを強いられているのでしょうか。ならば最初から原稿など書かず、短歌の世界との関わりを遮断してしまえたら、どれだけ平穏な生活が送れることでしょうか。

 ――けれども、何も言わないことで差別の温存や再生産に加担することになる方が、今の私には辛いことなのです。だからこそ、私はこうして書くことを選び、掲載してもらうことを選びました。

短歌時評alpha(2) 氷山の一角、だからこそ。 濱松 哲朗 - 「詩客」短歌時評

濱松の問題点の整理では

  • 森川が企画担当者(玲)に対して、時評連載企画について、詩客の顧問である加藤への「配慮」(忖度)を求めた。
  • (その結果かは分からないが)原稿依頼時点での企画案が「ミューズ問題を考える」であったのに、「ニューウェーブ再検討」にまで後退していた。

と、まとめられます。

中島もこう書いています。

 本件特集を企画し、招いてくださった物部鳥奈に心からの敬意と感謝を申し上げる。
 他方、本件特集のタイトルや内容に干渉した詩歌梁山泊代表・森川雅美と、それに賛同した加藤治郎には猛省を促したい。加藤がいくら詩客の短歌部門の顧問であろうと、加藤が(それも肯定的ではない切り口で)題材となる特集への寄稿者のタイトルに、森川から「個人名や『ミューズ』という名詞を書くな」と制限をかけるとは言語道断である。森川や加藤は「他人に迷惑をかけたくない」と言っているらしいが、それなら最初から加藤が責任の負えない発言(ツイート)をすべきではない。事の発端は加藤にあり、その責任を本特集の記事の執筆者が負うのは全く奇怪だ。また、森川の忖度を受け入れた加藤も同様である。
 加藤・森川の両名は文芸を、政治的・権威主義的に扱い、詩客寄稿者の言論の自由表現の自由を阻害している。加藤や森川の口出しが受け入れられるならば、現実社会の「政治家への忖度」も「お手盛り」も、どんな不公正でも許されそうなものだ。詩客がこんな不公正のまかりとおる場であるならば、こちらは真っ平御免である。さっさと潰していただいて、他の皆で新しい場を作ろう。せめて本稿が、加藤や森川によって手を入れられることなく掲載されることを願う(なお、両名が本稿に手を入れたならば当然、相応の指摘と闘争をさせていただく)。

「ミューズ」問題は、権威主義という氷山の、水面から出た一角に過ぎない。こういう無自覚な振る舞いが権威主義的だと指摘されたことが、加藤は現時点でもなお、本質的に理解できていないようである。

短歌時評alpha(3) 権威主義的な詩客 中島 裕介 - 「詩客」短歌時評

中島の問題点の整理はこうです。

  • 森川が(玲を通じて)、執筆者3名に対して、「タイトルに、個人名や『ミューズ』という名詞を入れるな」と制限をかけた。
  • (森川が事前に加藤に相談し)加藤はその制限に賛同した。

濱松の整理と中島の整理とでは、見え方が多少異なりますが、寄稿者に実質的な配慮/忖度が求められた、制限/圧力がかかったと認識した、という点では合致しています。

森川は問題を理解できていない

それに対する森川の文章を冒頭から順に見てみましょう。

 本企画においては、一部記事にあるような、顧問である加藤治郎氏を忖度してという意図は全くの誤解であり、事実は以下の通りなります。当然、検閲などなくあくまで特集に意義があるかという1点以外は考えていません。

 4月から「詩客」では新しい実行委員体制を組み、作品、時評に加えできれば企画をお願いしました。そこで担当の一人である玲はる名氏から連載3回の企画が出され、森川が承認し依頼がされました。

 それと同時に、顧問であり当事者でもある加藤氏に、すでにかなり論じられた内容のため企画に意味はあるのか尋ねました。

この時点でおかしい。「顧問であり当事者でもある加藤氏に、すでにかなり論じられた内容のため企画に意味はあるのか尋ね」たこと自体が、森川から加藤に対する忖度です。まず、顧問という立場、すなわち詩客にとっての身内であろうと、批判される当事者に尋ねるのはおかしいでしょう。そして、本当に「すでにかなり論じられた内容」「企画に意味はあるのか」という問い方をしたのであれば、森川は、加藤に対し、かなり偏ったものの見方へと誘導尋問を行ったことにもなります。


この点について、詩客時評公開時点で、森川と中島がやり取りをしています。






bijutsutecho.com

森川が「顧問には企画を相談するものです。」*3という時点で、相談の先に何が起こるかを想像していないならば想像力不足です。
そもそも、集団の代表である森川が「承認」を出しておいて、(批判の対象である当事者(加藤)の話を聞いたことは措くとしても)企画の変更を結局求めた時点で、寄稿者ではなく身内を守ろうとしていることがはっきりしています。詩客における、集団外から原稿等を預かる編集者としての役割を森川が毀損してしまったように考えます。また、もし仮に、加藤への相談を容認できるとしても、その相談の結果を待たずして企画に承認を出した森川の判断は誤っていた、と考えます。


なお、この点については、森川がすでに「参考にいたします。」と述べているので、今後の改善が図られているものと信じます。


森川の文章の続きを見ていきましょう。

その結果、もっと広い範囲の内容を取り上げた方が良いとの結論に達し、「ニューウエーブ再考(仮題)」を提案。一時はその方向なりましたが、これもいま行うには適切な企画ではないとの判断で、現在のかたちになりました。

上記のように、企画が2転3転してしまい関係者にご迷惑をおかけしたこと、森川の不徳であるとお詫びいたします。

誤解がないよう伝えますが、「詩客」としての本企画に対する意図や考えは以下になります。

・今までの経過を見て加藤氏への批判が大部分であり、それを再び辿るだけなら企画を行う意味がないこと。

どうして「今までの経過を見て加藤氏への批判が大部分であり、それを再び辿るだけなら企画を行う意味がないこと。」になるのでしょうか?すなわち、

  • この詩客時評までに公開されているのは、Twitter上の各人の発信を除けば、川野と中島の時評(それも、紙幅の限られた総合誌上の)だけ。
  • ツイートを辿って採録するだけでもアーカイブとしての意義がある
  • アーカイブが詩客としての役割ではない、ということならば、森川の「承認」(または加藤への相談)のタイミングがおかしい。
  • 森川の立場から企画の変更を行うとしても、森川から、濱松や中島に対する連絡は一度もなかった。

誤解がないどころか、明らかにおかしな発言が「意図や考え」として示されて、執筆者にも森川記事の読者にも、ちゃんと伝わっています。


さらっと進めますが

・企画のはじめは「ミューズ問題を検証する(仮題)」でしたが、企画が狭くなる可能性があり、特集の総タイトルから「ミューズ」という言葉を消してほしいという提案は森川からした。これは全体の方針に関わることであり、WEBページの運営として非難される行為とは思わない、という判断であり、その考えは今も間違っていないと思う。しかし、連絡過程で誤解が生じたかもしれないが、各自のタイトルや本文に「ミューズ」の言葉や関する内容を入れるなという提案はまったくしていない。「詩客」は特集の総タイトルは決めるが、執筆者の文章の題名や内容には原則干渉せず、今回も原則は守られていること。

「企画が狭くなる」ことをなぜ、企画の承認後に危惧したのでしょう。「特集の総タイトルから「ミューズ」という言葉を消してほしいという提案は森川からした。」のであっても、森川が加藤に十分忖度していますし、ましてや、森川が加藤に相談したと明言している以上、忖度そのものとしか言いようがありません。森川や加藤は、自分が寄稿する特集のタイトルが勝手に変わっており、自分だけが場違いになっていても何ら気にしないのでしょうか?


なお、中島が言及していた「タイトルに、個人名や『ミューズ』という名詞を入れるな」と制限をかけた」という圧力に限っては、森川→玲→濱松・中島への伝言ゲームの途中でエラーが生じたためであり、森川の意図するところではなかったと言い得ます。

・上記の繰り返しになるが、執筆していただいた原稿の内容に関して森川をはじめ玲氏以外の実行委員は、検閲はもちろんまったく関与も干渉もしていないこと。

森川以外の実行委員は、玲も含めて、別に関与や干渉は行っていないと理解しています。玲は企画立案者であり、適切な編集作業を行ったと理解しています。さて、なぜここで「玲氏以外の実行委員は、検閲はもちろんまったく関与も干渉もしていない」と玲だけを除外し、玲が検閲をしたかのように書かれているのでしょうか?玲だけをしっぽ切りしたような記述になっています。

・この後も執筆していただいた原稿の内容には、法律等に触れるか他者からひどく名誉を傷つけられたとのクレームがない限りは、森川など他の実行委員は関与も干渉もしないこと。

・執筆に関してはできる限り公平な人材を選ぶよう意図していること。

・「詩客」は常に様々な意見にオープンな場であり、今後においても、どの論も誹謗中傷にならない限りは掲載すること。

 今回は編集の力不足で、残念なことに一方向的な記事だけの掲載となったが、続く特集では別の視点からの記事も掲載し、より多面的な企画となるよう現在考えている。

 最後に、情報や連絡が錯綜するような混乱を招き、一部関係者にご迷惑をおかけしたこと、代表としてお詫び申し上げます。

ここで森川のいう「公平」とはなんでしょうか。そもそも、森川が当事者である加藤への忖度・身内贔屓をやってなお、加藤の批判記事ばかりが残る――それくらいの言動が加藤から為されたからではないでしょうか。私のこれまでのシリーズ記事をご覧いただいても分かるように、加藤の言動を批判的に追うだけでも十分に多面的になりえます。


少なくとも、「多面的な企画」にするために、玲に

私個人の意見などに関しては、詩客の方針から外れる部分なので書けません。

とまで言わせるほど、詩客が玲個人の意見を封じ、

私が今回の件でお話することができるのは、「ミューズ」という言葉における、Aさんのことを慮った立場からの「擁護論」ということになります。

と、詩客の意向に沿った記事を書かせる圧力をかけています。

その圧力について、玲が納得した上でそれを遂行していたとしても、森川が「一方向的な記事だけの掲載となった」と書くのはなにごとでしょうか。玲を含めた執筆者全員に対して大変失礼な話を時評企画の冒頭に「(はじめにぜひお読みください)」とまで題して置いています。


こういった事態が生じたことから、「(少なくとも結果的には)森川は加藤に対して忖度を行った」、「加藤には忖度を受けるだけの、一定以上の権力がある」と考えます。詩客という貴重な媒体が、今回の事例への反省を契機に、執筆者を守るべき媒体であることをより強く意識していただければ幸いです。
時評や森川記事の背景で進んでいた事態と、そこにあった圧力については、次回に扱いたいと考えています。

5月20日、「短歌研究」6月号に加藤治郎ニューウェーブの中心と周縁」掲載

短歌研究 2019年 06 月号 [雑誌]

短歌研究 2019年 06 月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 短歌研究社
  • 発売日: 2019/05/21
  • メディア: 雑誌
この内容分析も追って行いますが、論立てとしていくつかの問題があります。

*1:

この点に言及してよいかは、玲に確認済み

*2:

この点に言及してよいかは、濱松に確認済み

*3:中島がてにをはを一部改めた。原文は「顧問のは企画に相談するものです。」