(おまけ)「細見晴一『ジェンダーの壁』を批判する」を書きながら思いうかべた回顧のようなもの、など

(ただの回顧・随想なので、文章全体の一貫性は特にありません。)

「未来」7月号の山﨑修平「『未来』四月号 細見晴一『ジェンダーの壁』への異論」も適宜ご参照ください。

(見出しのみ)

未来短歌会のコアバリューとか、人間関係とか

私は2003年の未来短歌会入会前に「対等の関係」を加藤と約束しました。だからこそ私は、心苦しくとも、加藤に対してそのハラスメント的言動や性差別的態度を我慢強く指摘してきました……というエピソードは拙稿「権威主義的な詩客」にも書きました。


同じように、未来短歌会会員として対等である(はずの)細見に対して、私は、2019年8月のTwitterでのやりとりでも我慢強く話したつもりです。ただ、それにも関わらず、8月のやりとりから後退した言説が「未来」誌上で展開されたことを極めて残念に思います。


(中島のTwitter上の発言のうち、細見に対するリプライのみを検索した結果と、関連するツイートを掲出しておきます。)


もし私が加藤に〈師事〉し、加藤の〈弟子〉になっていたならば、なるほど確かに加藤に物申すことを今以上に心苦しく思ったことでしょう。ですから、未来短歌会会員のうち、加藤に〈師事〉していると認識している幾人かが、加藤と私との2019年以降のやり取りをご覧になって、私から距離を取ったことを――さびしくはおもいますが――責める気にはなりません。

あ、でも、Twitterでわたしをブロックした会員だけはいかがなものでしょうか。それは「距離を置いた」ではなく、「今後の対話の拒絶」だと思われます……。あと、ある方が「加藤による長年の洗脳が解けてよかったですね」と仰った(本当に!びっくりしました!)、その言動を私は最も軽蔑します。


選者とであってもしのぎを削り合う「対等の関係」であろうとすること、選者の言動に問題があるならば臆してもなお指摘すること・そうできることが未来短歌会のあるべき姿であり、他結社と比較したときのコアバリューではないでしょうか。未来短歌会会員各自がひとりの物書きで在るための最低限の倫理ではないのでしょうか。


2009年1月の未来短歌会の新年会、未来賞授賞式の壇上で、会の代表である岡井隆が「中島はぼくのライバル」と発言したことは(受賞者である私へのリップサービスも当然込みでしょうけれど)未来短歌会という場のフラットさが有名無実なものでなかったことをよく象徴しています。岡井がコメントを終えた直後、加藤が私に近寄って「岡井さんのライバル発言は本気だと思うよ。それが『未来』のいいところなんだ」と誇らしげに話した*1ことを覚えています。岡井に師事した、「ニューウェーブ」の加藤もまた、岡井と同じくらいフラットな態度で会員と(ことによっては、加藤と私のような事前の約束がなくとも)接することができるだろうと思っていました。――残念ながら、加藤についてはそれは間違いであり、私の知らぬ間に約束すらも一方的に破られていたわけですが。


翻って、加藤と「師弟関係」を約束した方々が、近藤芳美の・未来短歌会の理念に反して加藤を「先生」と呼び、加藤がそれを受け入れてもいます。さらに一部の会員は加藤のハラスメント的言動や性差別的発言を無批判に肯定しています。その態度は、ひとりの物書きとして、未来短歌会会員として妥当だとは思われません。加藤を擁護するなら、未来短歌会の会員として適切に、理性的・論理的にやってほしいのです。


加藤の「ミューズ」発言以降、私はもう1年半ほど「未来」に出詠できていません。年会費を払っていますが、未来の歌会や大会にも出ていません。ある会員は大会などの懇親会の場で私を陰に陽に罵り「中島は未来短歌会にいるべきか」「中島を未来短歌会や歌壇から追い出すべき」と話して回っているそうです。短歌結社がそういう、「文学や組織理念を二の次・三の次にし、人間関係を最優先する陰湿な集団」にならない*2ために、私は「短歌結社の再定義」を書いたのですけれど……。


多くの短歌結社において「結社に入ることや選歌欄に所属すること」と「結社の代表や選者と師弟関係を取り結ぶこと」に絶対的にイコールであるか、という点は問われてよいでしょう(個々の局面において、加藤が私との「対等である」とする約束を破ったことを度外視すれば)。これは家元制との比較などからいずれ時間の余裕があれば検討したいと思います。

「ニュースバラエティ番組のような短歌評論や短歌時評」

個人的好悪の情を率直に吐露するならば、「ある種の放言や、論理的破綻をきたした文章、再現性のない歌論」、「人々の話題に上ること自体を目的とする記事」のような、いわば「ニュースバラエティ番組のような短歌評論や短歌時評」はあまり好きではありません(ブログ版本文で扱った瀬戸時評や小原評論を指していません。今回の細見評論は……評論としてはニュースバラエティ的だと思います)。


「短歌評論には歌を引用しないと読んでもらえない、話題にならない」「註があるだけで忌避される」というのであれば、それはもう〈評論〉という呼び方を止め、「エッセイ」と呼ぶべきでしょう。もちろん、優れた歌人の方々が、短い文章で鋭い見解を述べた評論も数多くあります。私はそういう評論もエッセイも好きです(先述のとおり、「細見評論」が「エッセイ」だったならば、私も本稿を書かなかったでしょう)。ただ、「ニュースバラエティ番組のような短歌評論や短歌時評」まで〈評論〉と呼ぶことには抵抗があります。それはエッセイとして享受すればよい、と思うのです。


総合誌や結社誌を定期的に刊行し、特集を組み、特集内容を分析し、読者の理解を下支えするような評論を載せたいと考えるのは当然のことです(私が編集者でもそう思います)。定期的に刊行しなければ、読者も付きませんし、総合誌もまた維持できないでしょう(現代短歌評論賞は規定分量が(私には)少なすぎるとは思いますが、あの規定分量を超えると読めなくなる者も多いだろう、とも理解しています)。しかし、評論として適切に「論を立てる」には、本来は十分な引用や証跡が必要です。引用や証跡のある評論の積み重ねが次の評論を準備しうるのではないでしょうか。フェイクニュースとファクトチェックの、後者が圧倒的不利な〈いたちごっこ〉の時代にこそ、積み重ね――すなわち、ファクトとコンテクストの積み重ねをコンテクストの共有・形成を、これまで以上に誠実に行わなければならない情況にあるように思います。当然のことながら、積み重ねとなるような評論を誰しもが最初から書けるとは思っていません*3。短歌を愛好する人のだれしもが評論を必要とするとも思っていません。一握りの大歌人やエリートが評論の場を寡占すべきでもありません。その点、一首評の評論賞(すいません、正式名称が思い出せません……)や、現代短歌社のBR賞が生まれたのはとてもよいことだなあ、と思います。いろんな短歌評論のあり方が認められ、求められ、読まれるようになればいいし、私も微力ながらどうやったら貢献できるのか考えます*4


他方で、「ニュースバラエティ番組のような短歌評論や短歌時評」、いわば「短歌のフェイクニュース」に含まれる問題を指摘し、ファクトチェックを行うだけでもかなりの労力が必要です(後述のリンクなどをご参照ください)。今回の細見評論への指摘も、エビデンスに基づく形で適切に実施しようとすると、細見評論の分量(「未来」4ページ分)の何倍かは必要になります。以前の、「短歌人」の時評に対する検証・反論も、当該時評の分量(「短歌人」1ページ分)の7倍を要しました。フェイクニュース的な短歌評論・時評は結社誌でもなるべく掲載前に内容をチェックしていただきたいのですが……とはいえ、有志の会員が実施している以上、それが難しいという実際・事情もよく承知しています(未来短歌会はもちろん、結社誌や同人誌の編集に携わっておられる方々の営為に、私は敬意を払う以外にありません)。短歌界隈で短歌評論・時評に対してファクトチェックを行う営為が、作者にとっても読者にとっても、編集者や組織側にとっても、少しでも報われるようになることを願って止みません。
【参考】PDFへのリンク:「総務省 プラットフォームに関する研究会(2019.5.24) ファクトチェックをとりまく世界と日本の状況・課題」
gardenjournalism.com

箕輪厚介に見える世界と、短歌結社の〈ノリ〉

幻冬舎の「天才編集者」箕輪厚介によるパワハラ・セクハラ事案と、それに対する当人や周囲の応対について批評家T.V.O.D.が分析している記事を紹介します
(これも性差別・性被害について言及されています。リンクを踏む際にはご注意ください)
live.millionyearsbookstore.com
この記事における箕輪を〈短歌結社に属する一部の有力歌人〉、箕輪編集室を〈一部の結社や、小結社的な選歌欄〉といった具合に置き換えてみると、ものの見事に短歌結社界隈において発生した・している諸状況について説明しているように読めてしまいます。

男子校ホモソーシャル的な「内輪」ノリを前提としてイキり、悪態をつき、自らの性的加害行為を矮小化する。ひとりの人間として、自らの行為について社会に対してステイトメントを出すことよりも、「内輪」のノリを維持することの方が、彼にとって重要な問題になってしまってはいないか。

春樹にしろ見城にしろ、昭和期のある意味で過剰な出版人たちがつくり上げていた世界というのは完全に男性中心主義的なホモソーシャル空間であり、「俺ほど男子校的な人いない」という箕輪氏が、そうしたタイプの往年の「熱狂」に憧れを持つのは非常に分かりやすい。

短歌結社や短歌界隈において生じた不公正に関心を持つ方には、記事の全文を直接ご覧いただきたいところです。また、最近ですとブログ版冒頭でも引用した、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば ーー危機の時代と言葉の力』(渡辺由佳里・訳、2020、岩波書店)も非常に興味深い一冊でした。


これは拙稿「短歌結社の再定義」にも関わるところですが、短歌結社が文学的理念に基づいて活動する組織であることをミッションとして明言し続けない限り、ただただホモソーシャルな内輪〈ノリ〉*5の熱狂を、短歌を利用して維持するただの人間関係を求める〈群れ〉と化してしまいます。それは短歌そのものの彫琢・練磨を目指す「結社」と呼ぶべきではないでしょう。

中島は今も未来短歌会の会員です

「未来短歌会会員である」「短歌に関わる」とはどういうことなのだろうと考えながら、先日、未来の年会費をATMに飲み込ませてきました。

*1:このとき加藤は岡井を「さん」付で呼んでいました。あるとき、加藤治郎は近藤芳美や岡井隆を「先生」と呼ぶようになりました。

*2:それこそが「「短歌結社のこれから」のために、いまなすべきこと」だったのではないのでしょうか……

*3:私だって今後の積み重ねになるような評論が書けているか分かりません。何書いても反応がほとんど得られないのでどう受け止められているかすらわかりません。この情況を客観的にいえば「能力不足かテーマの間違いか、その両方かはわからないが、受け止められていない」と考えるのが正しいのでしょう。

*4:投稿を募る形での評論同人誌とか?この場合、評論を選定する側の責任がかなり大きいですが……。文学フリマで「投稿型短歌評論誌」を出してもいいかもしれません。結果的に〈表紙しかない〉なんてブラックジョークをかますかもしれませんが……

*5:縁故主義、といってしまってもよいと思います。縁故主義作家主義をしっかりと切り離さなければ、延々と「短歌はコネ」だの何だのと言われ続けてしまうことでしょう。