「歌人はひとである」(初出:「短歌研究」2023年4月号 拡大特集「短歌の場でのハラスメントを考える」)

歌人はひとである。基本的人権を保障されたひとである。

ひとは社会的な生き物である。ひとは、ほかのひとと交わりあって生きている。

社会は変わる。モノと情報の流通によって、社会の変化も急速になっている。

――歌人の方々はこれらの簡単な前提をはき違えてはいないか。自らを神格化された〈歌人〉という生き物だと勘違いしてはいないか。「勘違い」という言い方が気に障ったなら申し訳ない。〈神話〉と言い換えよう。

なお、私はこれまで歌人の方々から「中島は歌人ではない。中島の書いたものは短歌ではない。歌人と名乗るべきでない」という貴重なご助言を多数いただいてきた。以来、私を「歌人」と敢えて呼んでくださる方以外には「短歌制作者」としか自己紹介していない(歌人が誰かを「歌人ではない」と言い、あるカテゴリや集団から排除するときに働く言語や、その背後で動く意識に個人的にはとても興味がある)。とはいえ、本稿で「歌人の方々」を批判するとき、歌人を自称してこなかったものの、様々な愚行を犯してきた私が逃れてよいことにならない。よって、本稿に限り「歌人」に私を含むことをお許しいただきたい。本稿が私自身の内省・自己批判を多く含むことをご承知おきいただきたい。

ここでいう〈神話〉的歌人とはどういうものか。作品の実現を、己の人生全体での幸福の実現より優先してしまうひとのことである。作品のために、権力や権威とその構造を内面化してしまうひとのことである。内面化を経て、権力や権威とその構造を後景化し、内面化したこと自体を忘却し、他人だけでなく自らをも欺いてしまうひとのことである。

そのような〈神話〉は、絵仏師良秀のようなフィクションにおいては、あるいはある時代においては現実に、甘美であったことだろう。すぐれた人格者たちによる師弟関係もいつかどこかには存在したことだろう。その〈神話〉によって、自らを原稿用紙やパソコンの前で奮い立たせてきたひとも多くいるだろう。かつてあったその甘美さを、存在を、意志を、行動を、結果を否定しない。

権力や権威、その構造を内面化する、というのも、短歌界隈や歌壇に限らずこれまでの社会を生きた多くの人にとって〈よくあること〉だったことだろう。ただ、その内面化というプロセスを経たことを忘却してはならない。〈あなた〉が動かし、〈あなた〉が受け入れる権力や権威は所与のものではない。他人のいうことを考えなしに受け入れることも、受け入れてしまうことも、他人に自分のいうことを聞かせることも、それらを当然のことと思うのも本来のあり様ではないのだ。

私はコウペンちゃんというキャラクターを愛してやまない。一時期は新しいぬいぐるみが発表されるたびに買い集め、勤め先の私のデスクには今もコウペンちゃんグッズが並んでいる(本当に)。コウペンちゃんは生きている〈あなた〉をひたすら肯定してくれる。ひとは日々を生きているだけで本来は十分なのだ。〈あなた〉の生活がそもそも創造的な営みなのだ(たとえば、最近文庫化されたセルトー『日常的実践のポイエティーク』も参照されたい)。生活のうえで、さらに創作をも行うというだけで褒められてよい。

どうか、どうか生きていること、創作することだけで褒められてよい〈あなた〉に一度立ち返ってみてほしい。歌人は、あるいは歌人になってしまったあなたは、権力と権威の構造にかかる内面化というプロセスを経たのではないか、と自身に問いかけてほしい。その内面化を経なかった自分のあり様を想像してほしい。その像と現実に大きな乖離があり、想像のほうが望ましければ、内面化された〈呪い〉の解除を試みてほしい。

基本的人権なぞ無くせばよい、などという政党が長年支配的なこの国では、その〈呪い〉を無意識に受け、内面化しながら生活する方が「普通」だろう。しかし、それでもなお、歌作という創造的な営みに自ら関わるというのは、本来、徹底的に民主主義的な営みなのだ。歌作する〈あなた〉も、一人の個人であってほしい。歌人である前にひとであってほしい。


(初出:「短歌研究」2023年4月号)