「〈前衛〉と実作 ――生成AI時代に、人が短歌をつくること」本文(第41回現代短歌評論賞)

2023年に短歌研究社主催・第41回現代短歌評論賞を頂戴した拙論「〈前衛〉と実作 ――生成AI時代に、人が短歌をつくること」の本文を公開します。校正原稿を元にしているため、「短歌研究」誌からの反映漏れや、可読性向上のための表記置換・リンク貼り付けなどの異同があるため、拙論から引用を行ってくださる際には「短歌研究」2023年10月号の原文をご覧ください。なお、公開にあたっては短歌研究社からの了承を得ています(2024/4/4)

第41回現代短歌評論賞の課題「〈現代短歌の当面する問題〉に関し論題自由」でした。拙論はこの課題に対応したものです。

「僕たちが今日、世に出すことのできる一行一行は――それを委ねる未来がどんなに不確かなものであろうと――闇の力から戦い取った勝利なのだ」
ヴァルター・ベンヤミン*1

2023年現在までに、ChatGPTに代表される生成AI(「生成系AI」ともいう)に関するニュースに触れたことが一度はあるだろう。AIは人工知能(Artificial Intelligence)のことであり、「生成」と呼ばれるのはインターネット上にある無数の画像データやテキストデータをもとに、新しい画像やテキストを生成・出力することによる。2022年8月頃、「プロンプト」と呼ばれる、人間からの問いかけに対して画像を生成するMidjourneyStable Diffusionといったサービスが登場したことは記憶に新しい。
テキストを生成するAIとしてはOpenAI社によるChatGPTがよく知られていることだろう。ChatGPTは対話型AIともいわれるように、大規模言語モデル(LLM:Large Language Models)を基盤として、プロンプトに対して自然なテキストで返答する。大量の「人間の言語運用例」を学習しそこから「対話や文章の続き」を予測*2・出力することができる。
生成AIが学習している「人間の言語運用例」の多くは散文であるが、プロンプト=人間による条件設定や命令次第でChatGPTに、拙いながらも短歌を作らせることができる。2023年3月に公開された、GPT-4という最新バージョンであればよりましな短歌を作らせることも可能である。
本稿では、ChatGPTをはじめとする生成AI*3が襲来した現在においてなお、人が短歌をつくることの意義を論ずる。具体的には、情報科学の専門家でもある坂井修一のTwitter上での、ChatGPTと短歌をめぐる発言を主軸に検討する。近年の創造性研究の成果をもとに人が短歌を実作することの重要性を再確認する。最終的に、篠弘が『現代短歌史〈2〉―前衛短歌の時代』(短歌研究社、1988)第8章で論じた20世紀の前衛短歌の特徴と、それを踏まえた実作が、生成AIのある現代に改めて重要視されるべきであると主張する。

生成AIの前史として、「コンピュータが短歌を作った」といいうる近年の実例を確認しよう。角川短歌年鑑 平成30年版 (カドカワムック)に収録された座談会「人工知能は短歌を詠むか」において、人工知能が短歌を詠んでいた実例として挙げられた*4のは三つであった。第一に「星野しずる」。2008年、佐々木あららがたった530語と20の構文をもとに短歌を生成するウェブサイトを公開した*5。この試みを擬人化した名称が「星野しずる」である。たとえば、堀田季何『俳句ミーツ短歌: 読み方・楽しみ方を案内する18章』では星野しずるの短歌として

少年に似ている冬の太陽にしたがいなさい 夢のない時

という作品が生成・引用されている。あえて解釈を試みれば「あなたが夢を持てないようなときには、少年に似た(一日の間の短い時間であっても、世界を無邪気に明るく照らす)冬の太陽が指すところに従え」という、詩的想像力を喚起すると同時に、「したがいなさい」という命令形式の一語がどこか格言めいた意味あいを導き出せる。実例の第二に共同編集型オンライン百科事典であるWikipedia内の記事から5-7-5-7-7の定型に当てはまる一節を抜き出す「偶然短歌」が挙がる。第三に高橋光輝による、石川啄木の作品を学習したAIに未完成作を完成させるプロジェクト「機械学習で石川啄木を蘇らせる」がある。「星野しずる」は歌人が選別した歌語によって短歌を自動生成させうること、「偶然短歌」はWikipediaの記述が短歌の韻律に当てはまるかを判定できること、「機械学習石川啄木を蘇らせる」は歌人の文体の妥当性、いわば〈その歌人らしさ〉を数値的に判定できることにそれぞれ特色がある。
この座談会時点まではあくまで個人の試行・産物であった。その後、2019年に短歌研究社の「恋するAI」*6、2022年夏に朝日新聞社俵万智の短歌を学習させた「万智さんAI」*7と、短歌生成に特化した人工知能が発表された。これらの人工知能を出版社・新聞社が実現したこと――すなわち、公の目に触れ、誰にでも試行できるようになったことで、「人工知能は短歌を詠める」ことは事実認定されたと考えてよい。
そのような状況のなか、ChatGPTが2022年11月末に公開されたのである。

(1)一首単位での表現と〈伴走者〉

ChatGPTは2022年11月末に公開され、急速にユーザをふやした。100万人のユーザを獲得するまでに、Facebookで310日、YouTubeで260日かかったところを、ChatGPTはたった5日で達成したという逸話でその凄まじさが伝わるだろうか。2023年3月14日には新しいバージョンGPT-4が公開され、より自然な言語運用が可能になった。たとえば、我々が日本語で投げかけた質問に対しても(たまに不正確なことを言うが)自然に回答でき、長文の要約を求めれば一定以上の精度で実行してくれる。また、ChatGPTの強みは、人が修正を求めれば何度でも、むしろこちらの気力が尽きるまで修正案を出力できる点にある。
ここで、歌人であり情報科学の専門家である坂井修一の、ChatGPTと短歌を巡るツイート群に触れたい。坂井は2023年3月24日にこのようなツイートを連続投稿している。

選者&情報科学の専門家として申し上げると、ChatGPTが短歌を50首作り、角川短歌賞を受賞することは無いと思います。ただし、ChatGPTが作った短歌が、新聞歌壇やNHK短歌に入選することはあると思います。
さらに言えば、投稿歌壇でChatGPTの作品と人間の作品の区別がつかなくなる日は、そう遠くないと思います。それでも、投稿歌壇が成立するかどうか、というと、(人間の作品であることを前提にする限り)論理的にはNOということになりそうです。
もちろん、「AI作を認める」ことにすれば、この問題は解決しますが、これは短歌の大衆的基盤にAIが深く入り込むことになりますね。


3月26日の朝には坂井自ら正岡子規風の短歌やロートレアモン風の短歌をChatGPTに作らせようと試行錯誤している*8。しかし、「正岡子規風」というプロトコルに対し、ChatGPTは

雨降る日/静かに流れる/小川の水/心洗われるよう/春の訪れ

とを出力するにとどまった。坂井も「言葉の連携としてこれらは当たり前すぎて、読者の詩的想像力を働かせることができない」と断じている。


確かに坂井がChatGPTに出力させたこの「正岡子規風の短歌」は酷い出来の類であり、前掲の星野しずる作品のほうが読者の詩的想像力を喚起する。この出来の背景について坂井が

コーパスでは「雨—降る」「春—訪れる」のような表現が大量に出て来るので、コーパスが基盤のChatGPTではこれが自然な作り方なのでしょう。現段階のChatGPTには、「短歌は、新しい言葉の連携を生み出すものである」というメタな情報が欠けているか、あっても実践できていないと*9思われます。


とツイートしたように、一般的な散文や会話を多く含む大規模言語モデルコーパス) は、たしかに一般的な言語運用に多くみられるフレーズをもとにした短歌を第一に出力するだろう。また、こういった短歌作品をいくら列挙してもひとまとまりの連作とはならない。
ただ、人が能動的に、主体的に何度も修正を求めれば、ChatGPTは幾度でも新しい案を出力できる。一首単位に限っていえば、いずれ、より良い歌を完成させもする。ChatGPT自体のバージョンがさらに上がれば、より精度の高い歌をより容易に出力させることもできるかもしれない。ChatGPTに作らせた短歌一首を新聞等に投稿するだけであれば、その一首が入選することはそう遠くない、必定の未来として想像される。
人がChatGPTに繰り返し修正を求め、一首の精度を高めさせるまでもなく、どこかの段階で人がChatGPTの出力した短歌を下案・アイデアとして引き取り、自ら推敲し、一首として完成させることは当然考えられる。俵万智は自らの歌集を学習したAIの出力を体験するなかで、AIが作歌の「伴走者」*10 *11となりうるという。また、万智さんAIを開発した朝日新聞社メディア研究開発センターの浦川通は、同社の記事で「筆者は以前、短歌研究新人賞の最終選考を通過した「バニラ・シークエンス」という連作の中で、該当部分を明記した上で、一部AI生成によって得られた歌を収録する、といったことをしました」と述べているとおり、AIが一部を出力・生成した短歌作品を収録した連作が新人賞の選考でも一定の評価を受けたことは重要な事実である。

(2)詩的想像力

奇しくも坂井がChatGPTによる正岡子規風の短歌をツイートしたその同日26日に、制作集団「いぬのせなか座」の主宰であり、小説家・デザイナーの山本浩貴*12は「いぬと湖を私たちの家につれてかえってください」というプロトコルにより、ChatGPTに以下の〈詩〉を生成せしめた。

私たちはいぬと湖を抱えて家に戻りました。湖を家の庭に置き、左手で水面をつかんで波紋を立てました。右足を湖の水に踏み込み、水しぶきをあげていぬに近づきました。両手でいぬを抱き上げ、湖から出てきたところで優しく撫でました。いぬは水気を落とすために揺れ動く毛皮を揺らし、私たちの膝元で寝そべりました。右手でいぬの耳をかき混ぜ、左足で湖の水をかき混ぜました。いぬは心地よさそうに寝息を立て、私たちは湖の音に包まれながら家で過ごしました。

*13
一読して、意味が分からないほど難しい語は含まれていない。「いぬ」と、現実には抱きかかえられない「湖」が、抱きかかえうるものとして同列に扱われていることにあるくらいだ。それでもなお、この〈詩〉のなかでは「湖」は水をたたえた、ちいさな生き物であるかのようにふるまう。坂井が懸念した詩的想像力の余地が、ここには十分に含まれている。
山本とChatGPTがこの〈詩〉を生成するまでの経緯や手法については、2023年6月20日YouTube上の配信により山本自身が説明している。
www.youtube.com
ChatGPTに詩的想像力が働く余地が生まれるように事前に「抽象的概念をChatGPTが扱えるよう準備させる」だけでなく、生成した文章をさらに「手話に変換する」「タップダンスに変換する」といった、ChatGPTに触れたことがある者ですら驚く手順を幾重にも踏んで修正させたのだという。その準備には、相当高い文学的・工学的な知識や能力、数多くの試行が求められるわけだが、これほどまでに詩的想像力の働く〈詩〉をChatGPTが生成できるのであれば、ChatGPTが、読者の詩的想像力を喚起する短歌を作れるようになるまでのロードマップを描くことは今でもできそうである。

(3)文体

とはいえ、山本に倣って、ChatGPTに詩的想像力が働かせられるよう準備し、さらに短歌定型に落とし込ませるのは容易ではない。ChatGPTのようなAIにさらに任せて、星野しずる並みに、ボタン一つでより上質な短歌を作らせることはできないものか。
坂井は3月24日時点で以下のような思考実験をしている。

面白い問題として、既存の歌人Aの作品やエッセイをすべて取り込んだChatGPTは、Aの作品と区別のつかない短歌を作れるか、ということがあります。Aは、与謝野晶子であってもいいし、北原白秋であってもいいです。
私は、いずれできるようになるだろうと思います。ただし、既存作家の作品は、時代背景となる風俗や思潮、人間関係などが絡み合ってできているので、研究者が読んで区別がつかないものを作るのは、それなりにたいへんかと。


これは先述した、俵万智の短歌をコーパスとした万智さんAIの仕組みと、〈その歌人らしさ〉の数値的判定を可能にする「機械学習石川啄木を蘇らせる」プロジェクトの仕組みを組み合わせれば、技術的な実現可能性が高そうだ。
ただ、ここにいくつかの問題が立ちはだかる。俵万智のような存命の歌人が全面的に協力すればその歌人文体を学習した短歌生成AIを作ることはできる。著作権保護期間を過ぎた、北原白秋与謝野晶子斎藤茂吉らのような歌人の作品をもとにした言語モデル個別に作ることもできよう。そういったAIの構築を進めている研究者もいるかもしれない。ただ、そのようなAIを開発するにあたって、複数の歌人――たとえば、白秋と茂吉の語彙や文体を勝手に混ぜてよいものか疑問が残る。単一の歌人から学習したAIはその歌人の文体を模することはできるが、複数の歌人コーパスを混ぜたAIが、一貫性のある、優れた短歌を出力できるわけでもないだろう。同一の歌人であっても、文語と口語が混ざっていれば、最終的にどちらつかずの文体の作品が出力される。仮に文語短歌に限ったところで、AIに秀歌を出力させるには、事前に学習させる歌人や、その語彙・文体に相当な選別と調整を要する。口語短歌にコーパスを限るとなると、今度はコーパスの元となる歌人著作権保護期間の問題が生じかねない。また、口語短歌に特化させるとしても、現代的な発話を大規模に集約した言語モデルであるChatGPTに勝る短歌生成AIを作る必要がある。ChatGPTなど生成AIが優れている背景にはまさに「大規模」な言語モデルが存在するからであって、短歌生成AIが限られた言語モデルしか持ち得ないのであれば、理念的には「星野しずる」と大差なく、短歌生成AIから出力される短歌がどれほど優れたものになるかは不安が残る。結局「ChatGPTに対して入念な事前準備を施すほうがずっと容易だった」という事態にも陥りかねない。今のところは、ChatGPTをはじめとするAIが優れた、オリジナリティのある短歌を生成するまでにはもう少々の時間がありそうだ。

やはり、短歌の実作はChatGPTに一任できる状況ではまだない。ましてや著名な歌人から無名の市民まで、短歌を実作する人は多種多様である。その一定割合以上が、短歌定型を活かして、自らの生活や経験、情動を記録し、表現するために短歌を作っていることは紛れもない事実だ。短歌をつくること自体も、ひとりひとりの人生における大切な楽しみや喜びのひとつである。作歌技術の巧拙によらず、境涯詠も短歌の重要な一側面だ。生成AIが到来した現代だからこそ、自らの経験を書き残し、かつ自ら短歌を実作した、という過程そのものを慈しむことに立ち返らなければならない。もしChatGPTを短歌実作の伴走者とするとしても、それはあくまで伴走者であって、作者が主体的に振る舞うことを大切にしなければならない――





という、表層的な〈実人生原理主義〉に思いを致す人が多いかもしれないが、ここで締めくくっては議論としてまったく物足りない。われわれは、生成AIの時代においてもなお、人がみずから短歌を実作することをなぜ大切にしなければならないかを問わなければならない。「作者にとっての楽しみや喜び」という素朴な実感や経験からさらに掘り下げて、実作の必要と重要性を説明しなければならない。
2023年6月、創造性研究に関わる著名な研究者17名が連名で「人工知能と創造性」というマニフェストを論文として公表した*14。このなかで研究者たちは、生成AIの登場が人間の創造性と社会に及ぼすと想像される影響について、次の四つのシナリオを示している。
(1)AIとの共創
(2)オーガニック(AIの排除)
(3)「盗作3.0」(生成AIからの盗用)
(4)シャットダウン(人間の敗北)
筆者が〈実人生原理主義〉と総括したのは、この(2)オーガニックにあたる。AIを有害な食品添加物であるかのように排除し、〈無添加〉な、人間の実作を素直に寿ぐ態度だ。しかし、これは坂井が予見するように、一首単位の投稿・選歌ではいずれ通用しなくなる。いくら応募要項に「ChatGPTなど生成AIによって出力した短歌は投稿不可」と記しても、規定を無視する投稿者に対し主催者や選者は無力だ。生成AIによる出力を、そうと明らかにせずに盗用するのが、研究者らのいう(3)「盗用3.0」である。そして、(2)や(3)の先にある最悪のシナリオが、「人類の創造性ではAIの創造性に勝てない」と人が降参し、創造を諦めてしまう(4)シャットダウンである。われわれ人類は実は、この(2)から(4)へ転落しかねないその瀬戸際にいる。これこそが、2023年における現代短歌の当面する課題である。
短歌を自ら実作することは、短歌を鑑賞し、理解し、玩味し、自らの生の血肉とするうえで重要なのではないか。実作を経なければ、ChatGPTが示唆する語彙から適切な語を選ぶことができず、あるいはChatGPTが出力した短歌の出来不出来を考えることもできず、いずれ実作者としても読者としても、短歌を楽しむ力を失ってしまうのではないか。(1)の「AIとの共創」を可能とする基盤を今こそ、人間自らが持たなければならないのではないか。
教育心理学者の松本一樹*15と岡田猛、脳科学者のルトコフスキ・トマシュによる近年の研究によると、創作の経験がよりよい鑑賞を促すという。論文から引用する。

鑑賞に先行する創作経験によって作品からポジティブな印象を得やすくなること(さらにその経験が実際の創作家の辿った過程に近いものであるほどその効果が強まること)(略)さらに、この効果は好みの判断のみならず作品への感嘆の感情についても生じていたと考えられる。(略)
作品創作を経験すると鑑賞している作品の創作プロセスを高く評価するようになり、それがポジティブな美的印象をもたらしていることも示唆される
https://www.jcss.gr.jp/meetings/jcss2017/proceedings/pdf/JCSS2017_P1-22F.pdf

松本らの記述は認知科学に関する学術論文のそれであるため、少々わかりにくいかもしれない。仮に短歌に当てはめると
・短歌作品を鑑賞する前に自ら短歌を実作した経験があると、作品鑑賞時によい印象を得やすい
・短歌作品を鑑賞する前の実作経験が、その作品をつくった歌人の過程と近ければ近いほど、よりよい印象を得やすい
・短歌作品を鑑賞する前に実作経験があると、鑑賞する作品を好きになるだけでなく、「すごい」「よい」という感情や評価も生じる
と言い換えられよう。松本らの研究は創作折り紙に関する実験によるものであるが、「あなた自身の短歌の実作経験が、他の歌人の短歌作品に対する理解を促す」という考えは、短歌の実作者としても肯けるものではないか*16
ChatGPTの今後のバージョンアップによって、より自然により優れた短歌が作れるようになったとしても、あるいは短歌生成に特化した優れたAIが登場したとしても、それに頼らず、自ら創作することが、自らの創作技術を高めることが重要である。その向上によってChatGPTから提案された下案をよりよく推敲できるようになるだけでなく、他の作者がつくった短歌やその過程に対して、われわれはより深い感動を懐きうるのだ。

「生成AIがいずれ優れた短歌を作れるようになるかもしれない」が、「実作経験がよりよい鑑賞を促すことがわかった」現在、われわれは短歌において何をなすべきか。――私は改めて〈前衛〉を提案する。既存の短歌を学び、よりよく鑑賞したうえで、既存の短歌にはなかったこと、かつChatGPTにはできないことを創造する〈前衛〉を、私自身をふくむ人に求める。
最初に引用した坂井の3月24日の連続ツイートは、実は以下のツイートで締めくくられている。

短歌の先端のところでは、ChatGPTは無力なはずです。というのも、先端部は、過去の作品の集積だけでは作れないものを含むからです。塚本邦雄以前の歌をいくら集めてAIにかけても、塚本邦雄の歌は作れないでしょう。同様に、新世代の短歌を牽引する未知の歌人の歌は、今のAIには作れません。


ChatGPTをはじめとする大規模言語モデルも、短歌生成を目的とした特化型AIもあくまで既存の言語運用を学習・反映しているのであって、それ以上でもそれ以下でもない。短歌のなかに課題を見出し、問題を設定し、それを文学や短歌という営みのなかで解決することは、どこまでいっても人間の役割なのだ。
坂井は2023年4月15日には以下のようなツイートを行っている。

ChatGPTによって、投稿歌壇・投稿俳壇は大きな変質を迫られる。一首(一句)だけを見て、人間の作った作品とAIの産物の区別をつけることは、もうすぐできなくなる。10首(句)単位の投稿にするなどすれば、「作風」の統一感(=作者のもつ匂いのようなもの)で人間であることがわかるのだが。

このツイートに対するコメント*17に応えて坂井は

危惧するべきことかどうかは、人によって違うでしょう。私は、「投稿であっても、LLMからは分離可能な作品を作るべき」という考えです。歌壇・俳壇がオリジナリティーよりも継承性=縮小再生産を重視してきたことに対する警鐘をChatGPTが鳴らしているととらえるべきと考えています。


という。この「継承性=縮小再生産を重視してきたことに対する警鐘をChatGPTが鳴らしている」という考えに筆者は改めて賛同する。生成AIの時代に避けがたく突入してしまった現在だからこそ、今までの短歌とは異なるオリジナリティを、〈前衛〉を追求しなければならない。
たとえば、篠が『現代短歌史〈2〉―前衛短歌の時代』の第8章で論じた、戦後の前衛短歌の特徴こそが、今の生成AIにはできないことではないか。同章の項目からいくつか抜き出してみよう(丸括弧の番号は筆者が便宜的につけた)。

(1)方法上の変革
「喩」の効用/「体性感覚」の拡充/「諷刺」「諧謔」の定着/「性」の意識化
(2)「私」の拡大
構成された連作/「創造的個性」の認識
(3)主題制作の試行
(4)現代にみる主題の展開
原型としての群作/主題制作の意識/主題の多極化

身体を持たないAIには、体性感覚や性がない。それゆえに直喩や暗喩、換喩、提喩、諷喩も理解できない(篠の(1)に対応)*18。また、坂井のいうように、一首単位ではChatGPTもいずれ優れた短歌作品や群作を生成しうるかもしれないが、「『作風』の統一感」のある連作を構成できない((2))。さらに、連作を構成するに際しての主題は、AIに持ち得ない((3)および(4))。
ここで、戦後の前衛短歌を便宜的に「20世紀の前衛短歌」と呼ぶ。20世紀の前衛短歌がもつ特徴や試みは、生成AIに(少なくとも当面は)実現できない。この21世紀に改めて20世紀の前衛短歌を参照し、課題とし、そして実作すること、すなわち〈21世紀の前衛短歌〉の試行こそが、「AIとの共創」ができる未来を短歌において実現できる、と筆者は主張する。

総括しよう。
ChatGPTをはじめとする生成AIは、2022年に注目を浴びたが、その以前から人工知能に短歌を作らせる試みはあった。ChatGPTが作る短歌は、2023年時点ではまだ拙いものであるが、今後、一首単位であればChatGPTのバージョンアップや人間の準備次第で、詩的想像力を喚起する優れた短歌作品を作る可能性が高い。だからといって、AIを排除し、あるいは自らの創造性を断念してしまうことは誤りだ。人間が短歌を実作することは、短歌作品をよりよく鑑賞し、より深い感動を抱き、AIとともに創造的に生きる上で一層重要性を増す。20世紀の前衛短歌が取り組んできた課題と実践は、生成AIがある現代に改めて立ち現れる。我々は20世紀の前衛歌人の営為を伴走者とする〈21世紀の前衛短歌〉によって、生成AIには出力できない短歌の実作に挑まなければならないし、また、その価値がある。生成AIが優れた短歌を作りうる今こそ、一見愚直に見える〈前衛〉的実作に取り組むことが最も重要である。

(了)

*1:ケイギル他・久保訳『ベンヤミン (ちくま学芸文庫 ヒ 4-5)』、ちくま学芸文庫、2009、P.3

*2:東北大学・松林優一郎准教授によるYouTube動画より。youtu.be以下、脚注にあるURLは2023年6月29日時点で確認。

*3:実際には数多くの生成AIがあるが、本稿ではChatGPTをその代表として扱う。

*4:ブログ用註:実際に「挙げた」のは中島なわけですが……yukashima.hatenablog.com

*5:ブログ用註:本記事公開時点では佐々木あらら自身による公開はされていない。当初のURLは http://sasakiarara.com/sizzle/ 。現在、GitHub上でクローンが公開されている模様

*6:恋するAI歌人|短歌研究社 ただし、現在は短歌作品を生成しない。

*7:www.asahi.com

*8:

*9:ブログ註:原文の「とと」を修正

*10:www.asahi.com

*11:紙幅の都合上、本稿で触れられなかった重要な点の一つに、「AIによる生成物を著作物とみなすのか」「AIを〈伴走者〉とした場合に著作権侵害とならないか」といった著作権の問題がある。結論としては本稿と大筋で重なる。

*12:ブログ註:

*13:なお、山本はツイートにおいて「詩」とも「小説」とも明記していない。本稿では〈詩〉として扱う。

*14:Vinchon, Lubart et al., (15 June 2023), Artificial Intelligence & Creativity: A Manifesto for Collaboration Journal of Creative Behavior vol. 57, Issue4, https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/jocb.597

*15:ブログ註:現在の所属教員紹介 | 松本 一樹

*16:なお、松本と岡田の2021年の研究では「必ずしも鑑賞者がその場で創作を経験せずとも、作品の創作プロセスに鑑賞時に細かく注意を払うことで作品に対する印象や生理指標(脈拍値)に変化が生じる」(https://www.jcss.gr.jp/meetings/jcss2021/proceedings/pdf/JCSS2021_OS14-2.pdf)とも書かれている。実作経験に限らないとはいえ、「その創作プロセスに注意を払う」ということが可能であるのは、その作者が人間である場合であろう。

*17:安西大樹によるツイート「その変質は危惧すべきことなのでしょうか?/たとえばわたくしが実験的にAIのつくった短歌を新聞歌壇に投稿したとしたら、責めを負うたぐいの行為でしょうか?/わたくしはwithAIの気持ちで共存したいのですが。」

*18:「AIは文章を理解できない」ということではない。岡野原大輔『大規模言語モデルは新たな知能か ChatGPTが変えた世界 (岩波科学ライブラリー)』(岩波書店、2023)によると、ChatGPT以前のAIも文章を構造的に〈理解〉している。