第一歌集に至るまでの極私的回顧(1995~2008) 

前の記事(回顧、に至らない - Starving Stargazer!)で一旦は断念した回顧ですが、短歌をはじめた1995年から第一歌集を刊行した2008年までの極私的回顧を綴らせてください。

短歌にかかわる、私にとっての懐古的時系列(1995~2008)

1995年、短歌をつくりはじめた。受験勉強の間にも短歌を作っていた。1996年から1年の浪人、1997年から1年の仮面浪人。

1998年、仮面浪人に失敗し立命館大学に復帰。『新星十人』を購入。エスツープロジェクトの3人の作品に感銘を受け、「これからは私性に対する取り組みが重要だ。私性に拠らない短歌が、〈非-私性〉の歌が必要になるだろう」と判断。個人ホームページ「碩嶺の木々」を開設して細々と作品を書いていた。大学にはほとんど行かなかった。

1999年、岡井隆さんの、京都精華大学公開講座に出席しはじめた。毎回締め切りギリギリにFAXを送るので、詠草の掲載順は一番最後。岡井さんは「この講座はいつも最後に大変な歌が来るねえ」と苦笑いしながらも評してもらった。Starving Stargazerの歌を送ったのもこの講座で、最初に読んだのも岡井さんだ。あの日は終了時刻をオーバーして、京都精華大学から最寄り駅までのバスに乗り遅れた。

2001年、大学を卒業し、京大の科目等履修生に。京大短歌会に参加。学生短歌大会2001で文屋亮さんに初めて引いてもらった感動を今も覚えている。ホームページの名称を今と同じ「Starving Stargazer!」に変更。ラエティティアに加えてもらったのはこの頃か翌年か。

2002年、大学院生に。第1回歌葉新人賞の最終候補に残った。島田幸典さんが「ようやく中島くんのやりたいことがわかったわ」と言ってくださって、はじめて「1998年の判断が間違ってなかった」と感じた。マラソンリーディング2002に参加。往復両方が夜行バスだったのはこのときが最初で最後。窮屈なのが苦手だとよくわかった。マラリー2002は岡井さん以外の歌人に、フラットに触れた初めての機会だった。やさしい人が多く、短歌の世界が一気に広がった感じがした。その一方で「あんなのは朗読じゃない」とも言われた。そういう人もいるだろうな、と思ったし今もそう思う。この頃から「中島のは短歌じゃない」とか「良く言って〈黒瀬珂瀾の多重劣化コピー〉」といった発言を聞くようになった*1。京大短歌の飲み会で歌壇の話を聞いてもどかしい思いになったり、「結社を選ぶとしたらどこがいいですかね?」と訊いたら「短歌やめたら?」と面と向かって言われたり*2。秋頃、「パピエ・シアン」にお誘いをいただく。結果的にちゃんと続けられず大辻隆弘さんに対して申し訳ない思いが今も強い。

2003年、短歌ヴァーサス創刊。歌葉新人賞の候補者たちが続々作品や文章を発表するなか、私は終刊まで一度も声がかからなかった。加藤治郎さんからのメールで未来短歌会・加藤選歌欄へのお誘いをいただく。「加藤さんと文芸上は対等な立場であるならば参加する」旨回答して相互に了承。この「対等な立場である」というのは自分の行動指針として強く意識した。6月から未来短歌会に参加。第2回歌葉新人賞はだめだった。

2004年、大学院から逃げ出すように就職。友人に結婚式に誘ってもらったので案内を待っていたら式が終わったことを人づてに聞く。マラソンリーディング2004に参加。未来短歌会の会員(当時)から「的はずれな評が気に食わない。仲間に自宅を襲わせる」など脅迫を受ける。仕事は残業が多く、休日に行くぽえむぱろうるが心の救いだった。自作ホームページからはてなダイアリーに移管。「未来」彗星集(加藤選歌欄)の歌会から足が遠のく。

2005年、当時は招待制だったmixiに、職場の先輩に誘ってもらったのがこの年。歌人の友人と舞台を観に行ったり、飲みに行ったり。未来短歌会全国大会にパネリストとして登壇し大失敗。田中槐さんが主催していた朗読千夜一夜にも何度か出演させてもらった。

2006年、春、都内某所の朗読イベントに参画。中島も朗読することになっていたはずだが、数日前に渡された出演者リストに私の名前はなかった。一スタッフとして務めた。歌集の刊行を強く意識し始める。

2008年、年始から歌集の準備を始める。「中島は歌人と名乗るべきではない」と幾度目かの釘を刺され、歌人を名乗るのをやめる。「oval」で未来賞受賞。第一歌集『Starving Stargazer』刊行。

第一歌集に至るまでとか、今にも通底する思いとか

特に2002年から2006年にかけて、同世代の歌人が同人誌やグループ、歌会を作っているのを遠くから見ていた。声をかけてもらう実力もなく、だからといって自分から「仲間に入れてくれ」と言う度胸もなく、自分から声をかけるには輪をかけて勇気がなく、人に快諾してもらえるヴィジョンが思い浮かべられるほどの人望もない。シンプルに、なにもなかった。いまもない。それでも同世代が羨ましい。勝手に疎外を感じ、実力がないのか、人間関係が下手なのか、そもそも〈非-私性〉を志した時点で私の書いたモノが短歌でも歌でもないのか――結局、私が〈短歌〉の何と折り合いがついていないのかが分からず、〈短歌〉のすべてとうまくいかない感じがして、それが息が詰まるほど苦しくて、「自分の歌集を出す」という方法以外に脱出路がない気がした。それは、言葉に詰まった人が暴力に訴えるのに近い。

ここで書いた「〈非-私性〉の短歌が必要だ、と思った1998年の判断」は、2002年の第1回歌葉新人賞の候補になった連作、ひいては第一歌集で技術的には達成できた側面もあると思う。でも、それを達成したところで〈短歌〉にとってはきっとどうでもよい。

もう2022年だ。
短歌界隈では幾度も私性の話題になり、総合誌でも「私性」の特集が組まれた。そのとき「一首のなかにある〈私〉は複数の視点からなる」とか「一首のなかに複数の私性が立ち上がる」という言説は(少なくとも私が観測できる若手の論客にとっては、割と)当たり前になった*3。そのとき、〈非-私性〉を目指したわたしはそこにいない。そういうものなんだと思う。

*1:直接だけでも一定数聞いたので、私がいない場所ではもっと言われているのだと思う。あと「●●さんと比べてダメ」というけなされ方をするとき、同世代の黒瀬さんが挙がることが多い

*2:割と頻繁に書いているエピソードだけれど、この発言に本当に感謝しています。この発言を面と向かって言ってもらえたからこそ、短歌や歌人、結社というものについて多くの方がどういう思いを抱いているのか想像できるので

*3:たとえば、ashnoa.hatenablog.comlyrikuso.netlify.app念の為に申し添えると、浅野さんや小峰さんを難じたいわけではない。むしろ多くを学ばせてもらっているし、「優れた若手の論客にとってはこれが当たり前になっていて、だからこそ、次の世代の議論につなげなければならない」とも思っている