短歌とか言語の営みにかかわる者にとっての、公正さについての雑感

ある程度の時間が経ったのでちょっと振り返っておきたい。わたしがどうして、ある歌人やその周辺にいる/いた一部の方々の不公正な言動を、わざわざ「不公正だ」と言ってきたのか。
自分のブログ内で検索してみても、ここ6年ほど公正/不公正についてしばしば言及せざるを得なかったことがわかる。
公正 の検索結果 - Starving Stargazer!
なぜ「公平」とか「正義」ではなく、「公正」について語っているのかというと、公正さは社会やコミュニケーション、正義について考えるうえでの土台だからだ。


朱喜哲『〈公正〉(フェアネス)を乗りこなす』(2023、太郎次郎社エディタス)のP.47~48から引用しよう

わたしたちがともに不安定な社会を営むという挑戦において、おのおのの利害・関心を共存可能にし、また協働の果実を適切に分配するために機能する社会システム(制度)が「正義」です。そして、「正義」が合意されるための前提条件となるのが、そうした合意を形成する場が「公正(フェア)」であることでした。
ここまでの話をふまえると、公正さとはわたしたちの社会的な協働において、わたしたち個々人に要求される事柄(責務)を指しています。

(下線部は原文では傍点)

正義について言及し、あるいはほかのだれかと語りあい、合意を形成しようとするとき、その前提として公正な態度が必要になる。短歌を含む言語芸術に携わるなら、言語の営みにかかわる多くの人にくらべて、公正さがより求められるべきだと私は考える。言語芸術に携わっている個人が公正な態度を実現できないのであれば、その作品をも自ら毀損してしまうのではないか。その個人が行う選や評、作品に対する議論も「公正ではない」という疑念を招き入れてしまうのではないか。そのような事態を、本来は当人も望んではいないのではないか……?
いや、もうわたしが心配することでもないんだけれど

少なくともわたしは、過去のエッセイやトークで「自分が正義だ」なんて一言も言っていないし書いていない。実際、そう思ったこともない。ただ、公正であろうと努めてはいる。言語化し、対話するチャネルを開き続けようとしているつもりだ。
わたし自身も含め、言語芸術に携わる人に対して、一定の公正さを求めるのはそんなに間違った態度だとは思っていない