【本編】加藤治郎さん、あなたは文章が読めない(4)2019年2月19日

前回(3)から気を取り直して、加藤の言動について批判を進めていきます。今回は加藤の2月19日のツイートについて。

加藤の反動化が本格化

2月19日の加藤のツイートは、5時58分てつろーに対する引用ツイートから始まります。




ここで反省して、「文学とは何か」と高圧的な問いを一方的に投げかけたことを謝罪していれば、現在に至るまで、これほどまでに大きな問題として表面化しなかったのではないでしょうか。私も「まあ……直接苦言を述べればいいか」と思っていたでしょう。


ところが、7時48分、加藤は物部鳥奈に対するツイートで愚痴をこぼします

罵詈雑言の嵐だろ
差別主義者、卑怯者、権力者・・・
まあ俺はずっとこうだ
権力なんてないよ
権力は別の場所にある

この時点で反動化が起きていた、と私は見ています。「まあ俺はずっとこうだ」と、自身の過去のミスと同じレベルにまとめてしまいました。そして、「権力なんてないよ/権力は別の場所にある」と、「権力」という語への無知ぶりを華麗に表明しはじめます。結局、なぜ「差別主義者、卑怯者、権力者・・・」と色んな人に言われたのかを深く受け止めて、考えようとしなかったのです。

(2019年12月9日23:30追記)

昨今のハラスメントの問題を見るにつけ、自戒として、短歌結社の選者のパワハラに注意したい。
選者は選歌という厳粛かつ超越的な行為を実施する。
限定的な世界だが、権力があるのだ。
作品イコール人そのものであるような場合には、作品への厳しい批評は作者の人格に及ぶ場合がある。
難しい。

加藤が未来短歌会の選者をはじめたのが2003年、毎日歌壇の選者になったのが2005年です。もう10年以上も選者をやっていた2014年の時点で「選者に権力がある」ところから、2019年に至ると「選者に権力はない」に大転換してしまいます。2014年時点での見解を大切にしておられたら、もう少しマシな現在があったのかもしれません。

加藤は「ニューウェーブに女性歌人はいないのかという問いは多義的です」だなんて、まったく思っていない ――睦月都やユキノ進とのやり取り

8時8分、加藤は睦月都の問いに答えようとします。睦月のツイートに入る前に、ここでの話題の前提を確認しておきましょう。

ニューウェーブに女性歌人はいないのか」に至るまで

2018年6月2日に、名古屋で「現代短歌シンポジウム ニューウェーブ30年「ニューウェーブは、何を企てたか」」が開催されます。
kankanbou.hatenablog.com
wave20180602.wixsite.com
この会の様子は書誌侃侃房の短歌ムック「眠らない樹」vol.1に収録されています。

短歌ムック ねむらない樹 vol.1

短歌ムック ねむらない樹 vol.1

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 書肆侃侃房
  • 発売日: 2018/08/01
  • メディア: 単行本

睦月は、この会で話題となった「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」という問いについて、「短歌往来」2018年12月号掲載の評論「歌壇と数字とジェンダー――または、「ニューウェーブには女性歌人はいない」のか?」で疑問を投げかけています。睦月のブログから引用します。
mutsukimiyako.hatenablog.com

特に議論が紛糾したのは、「ニューウェーブに女性歌人はいない」とする、西田を除く三者歴史観である。

荻原 次の質問にいきますね。「ニューウェーブの女性歌人は」って、すごい質問だな。千葉聡さんの質問ですが、「ニューウェーブで男性4人の名前はあがりますが、女性歌人で同じように考えられる人はいませんか」です。論じられていないのでいません。それで終わりです。女性歌人について、なぜニューウェーブのなかで語られないかって話はまた別ですので、これは無茶だと思いますね。今日の論旨のなかでは。ただ、千葉さんが名前を挙げている林あまりさん、東直子さん、紀野恵さん、山崎郁子さん、早坂類さんは、それぞれに口語の表現、ライトヴァースなどの切り口で、加藤治郎さんと紀野恵さんとか、穂村弘さんと東直子さんとか論じることはたやすくできると思います。ニューウェーブというくくりだと全然べつなので、これはちょっと無理ですね。答えられる人がいれば、あとでください。

――書肆侃侃房「ねむらない樹」収録、「現代短歌シンポジウム ニューウェーブ30年」より

他の質問については四者順繰りにマイクを回していった場面で、この質問にかぎっては荻原の以上の発言のみであっさりと次に移り、会場には戸惑いの空気が生まれた。これに関しては終盤、会場にいた東直子より「ニューウェーブという言葉によってくくられる短歌史の認識に関しては、なんで林あまりさん、早坂類さん、干場しおりさんなどが、あまり論理の俎上にあがってこないのかとずっと疑問に思っていました。私のなかではニューウェーブの口語短歌の歴史的な先輩として刻まれているのに」と問題提起がなされ、加藤、穂村にも発言を求めたが、結局のところ、加藤も穂村も「女性歌人ニューウェーブに入れる必要はない、歴史的な定義からいって無理だ」といった認識を述べるにとどまり、時間の関係上、議論はそこで中断となった。

そもそも、「ニューウェーブ短歌とはなにか」が、その形式や内容について確定的に論じられていませんし、辞書的な定義も定まっていないと理解しています。その現在において「ニューウェーブ短歌に女性歌人はいない」と(少なくとも断定的には)語りえないはずでしょう。
議論の詳細は睦月のブログや、未来短歌会の高島裕の時評(「未来」2019年2月号)などをご覧ください。
www.miraitankakai.com

なお、この問題を受けて、2019年3月3日には第1回笹井宏之賞の授賞式の後、東京で「シンポジウム「わたしたちのニューウェーブ」(東直子水原紫苑+江戸雪)」が開催されることとなります。これは追って言及することになると思います。
www.kankanbou.com

睦月都とのやり取り

睦月の2月18日のツイートと、加藤の2月19日8:08の応答に戻ります。




常識的に考えると、加藤のツイートは、一ツイートの中ですら意味が通りません。

#ニューウェーブに女性歌人はいないのか
という問いは多義的です

と、本気で「問いは多義的」と考えるならば、誰がどうやって

短歌史上の「ニューウェーブ」に女性歌人がいなかったことは事実です

と事実認定できるというのでしょうか?「短歌史」とは、「短歌におけるニューウェーブ」とは、「女性歌人」とは、一体なんなんでしょうか。「事実」で答えられるような語が、「多義的」なわけはありません。


呆れて卒倒しそうな回答に、睦月は問い返します。





「文献等、具体的に指し示すものがありましたら」と聞かれて、加藤は3冊の本を挙げていますが、そのどこにも記述がない……。どこかの国の「文書は残っていないが、私が言ってるので正しい」と強弁する政治家のようです。自分の主張する内容を担保する文献を正確に挙げられない時点で文筆家としての問題があるのですが、さらに「常識」で押し通すあたり、ただのマウンティングにしかなっていません。これが万人に許されるなら、加藤の「ミューズ」発言に問題があったことも「そういう発言は現代常識で問題なんだよ、バカ!」で済むことになるのですが……加藤はそういう問いを自身に向けたことはあるのでしょうか。


睦月のTwilogを見る限り、睦月はこの後、現在にいたるまで加藤に対するリプライ等を行っていません。

ほぼ無関係な論文への話題のすり替え ――ユキノ進とのやり取り

短歌における「ニューウェーブ」という概念についてはユキノ進とのやり取りが行われますが、ここでも加藤は見当違いの振る舞いをします。






このユキノの感慨は私も実感をもって感じられるところです。ところが、ユキノのツイートに対して、加藤はまたも話題をすり替えます。

ユキノは「この歌もニューウェーブでは?という議論をしても当事者が「4人だ」と明言しているのであれば、それ以上話が深まらないからです」と、議論のフレームワークの妥当性について疑義を述べているにも関わらず、加藤が「ニューウェーブは、当時のデジタル化を反映しています」と応じるのは回答になりません。二重三重(では済まないほど、何重もの)の見当違いが起こっています。議論のフレームワークの妥当性について話してもいませんし、ニューウェーブの定義や要素を説明しすらしていません。

加藤のツイートを仮に最大限好意的に捉えて、「当時のデジタル化を、短歌表現の内容や文体に反映した短歌をニューウェーブと呼びます」と定義を述べる意図があったならば分かりますが、加藤はそう述べていない以上、ユキノの疑義の提起に応えているとはいえません。

氏家論文に言及するタイミングが明らかにおかしい

なお、念の為、加藤が言及している論文・氏家理恵「記号の侵略 : 文学における表現の変容」(「聖学院大学論叢」第14号、2001)について、ついでに説明しておきます。
ci.nii.ac.jp
論文の章立てと、言及されている作品については以下の通りです。一部、簡単に引用し、加藤がこのタイミングで言及するのが明らかにおかしく、自己矛盾していることを説明します。

  • はじめに

本稿は、印刷メディアと通して発表された文学作品に見られる現象と、その根底にある言語認識の変貌を明らかにするものである。

記号が文字よりも強い視覚的・意味的なインパクトを持つことと、それでいながら音読の際には聴覚的に無力化されるという例として、現代短歌からもいくつか挙げてみる。

ここにおいて、文字は、もはやコードにしか過ぎないという典で記号と同じ位相に置かれ、また、自然の事物でさえも、すべてを定量可能にしようとする新しい知の影響を受け、その姿をコード化するのである。

    • ニール・ミルズ
  • おわりに

文字を音声に従属した図像であるとするならば、印刷媒体の文学作品がある程度信頼を寄せていた、読める作品、音声化できる作品という概念は、新たな言語の侵略によって打ち砕かれたのである。それは、新たなコード形成を伴い、解読のための新たな文法を必要とする。新しいメディアは新しい言語を生み出しているのである。

「おわりに」から引用した氏家の言挙げは、2001年時点ということを考えると、論点をよく押さえていると思いますし、短歌においても(デジタルに影響された短歌を、ニューウェーブとして呼ぶならば)《ニューウェーブ》短歌や「ネット短歌」といった概念を再検討する上で、この言は(補助的な意味で)役に立つことでしょう。


さて、しかし、加藤がユキノとのやり取りの中でこの論文を引用することで、色々とおかしいことに気付かれるでしょうか?

  • 氏家は別に「世界の文学」の話をしていません
    • ゲーテの「世界文学」や、ダムロッシュが論じた「世界文学」の概念とは別に、加藤は「短歌は、日本国外の文学とも関係がある!」という程度の話しかしていません。加藤は同じことばを、西洋化に立ち向かい、価値観の変容と戦い続けた近現代の歌人や、海外の文学と短歌の関わりを考える比較文学者を前にして言えるのか、と思います(……言えるくらいの蛮勇を持ち合わせていそうなのですが……)。

kotobank.jp

世界文学とは何か?

世界文学とは何か?

  • デジタル化という「新しいメディア」が《記号》の文学的使用という「新しい言語を生み出している」とはいえますが、これは、少なくとも加藤のツイートに照らして考えれば、ニューウェーブ短歌と関係があるように読めません
    • 「デジタル化こそがニューウェーブ短歌の定義に関わる重要な要素だ」という、定義に関わる趣旨のツイートを加藤はしていません。
  • もし、氏家が挙げた短歌が、《短歌におけるニューウェーブ》に属すると考えられるならば、「荻原・加藤・西田・穂村」の4人を指し示すわけがないし、女性も含まれることになります。
    • つまり、ユキノの「この歌もニューウェーブでは?という議論をしても当事者が「4人だ」と明言しているのであれば、それ以上話が深まらない」という言に反論しているように見えて、ユキノの指摘を補強しているに過ぎません。


この説明を読んでも、「加藤治郎は論文が読めている」「加藤治郎は他人のツイートにきちんと応えている」と思いますか?この読解力で、他人の歌を読んで、選ができると思われますか?評論が書けると考えられますか?*1


世界の文学への通路が極東の詩歌にあったのだ。

と書くあたりから、加藤は、どうにも「日本国外の文学」から「世界文学」へと大幅な飛躍を遂げているようです。私自身は短歌の地位を貶めるつもりは一切ありませんし、むしろ高まればよいと思っていますが、短歌を世界文学に紐付けるのであれば、(加藤に限らず、短歌全体として)夜郎自大にならないようかなり注意深くあるべきだと思います。*2

補遺 ――荻原裕幸の反省*3

3月8日、荻原裕幸が「ニューウェーブ30年「ニューウェーブは、何を企てたか」の構成に対する反省を述べています。




ここで荻原が述べる「どこかスルーされがちだったニューウェーブ」という認識は、より下の世代とは共有されていないのかもしれません。

「権力」概念の浅知恵 ――物部鳥奈とのやり取り

7時48分の加藤の応答から、物部鳥奈とのやり取りに戻ります。



陳宮の話題は前日18日の深夜0:46にも言及しています。なお、このツイートの前後に、物部鳥奈や朽木祐に自分の主張を書き送っているリプライがあり、唐突に

陳宮〜」

が挟まれます。リアルタイムでツイートを見た私は当時、あまりの唐突さに背筋が凍りました。
f:id:theart:20191202144836p:plain
Twilogより)


物部のスタンスは(この時点では?)加藤を批判しつつも、文筆家として認め、叱咤激励しているようでもあります。これに対して加藤は次のツイートを行います。


このツイートについて、私は2019年5月公開の詩客時評で次のように批判しています。長くなりますが、該当部分を引用しておきますが、この指摘は未だ有効だと考えています。

(1)権力に対する二重三重の誤り
 加藤は「ミューズ」発言に対する反省の過程で、問題を〈延焼〉させている。次のツイートが典型的だ。

権力なんてないよ
少なくとも権力者じゃない
つまり人を意のままに動かす力はありません
短歌研究新人賞や前川佐美雄賞の選考、毎日歌壇の選歌は業務請負です
「未来」の選歌は、無償のボランティア
もともと権力なんて欲していないよ
https://twitter.com/jiro57/status/1097638286950977537

 いやはや、ご冗談が過ぎる。加藤のツイートは、「権力」という語に対する認識に二重三重の誤りがある。加藤が不勉強、あるいは時代遅れであるともいえる。

 権力論一般については、このツイートを加藤とやり取りした濱松哲朗が説明してくれるだろうから本稿では詳細を省く。なお、私は、権力論一般については杉田敦『権力(シリーズ 思考のフロンティア)』(岩波書店、2000)を、無償労働(を意味する和製英語としての「ボランティア」)の権力が増大される点については仁平典宏の論文「〈権力〉としてのボランティア活動」(「ソシオロゴス」第27号収録、2003)を参照した。

「権力」=(明示的に何かを命じることで)「人を意のままに動かす」もの、という認識・枠組みがまず古すぎる。また、「人を意のままに動かす」という事態は、人が他人に何かを直接指示することによってのみ行われるのではない。暗黙裡に「人を意のままに動かす」こともできる。

 業務請負だからなんだというのだ。無償だからなんだというのか。わざわざ繰り返すまでもないことだが、「ミューズ」発言も、男性という属性に付帯する(旧式の)権力を行使したものではないか。加藤が列挙した事例だけでも、有償無償を問わず、「選をする」という、権力の典型的発露ではないか。政治家や資本家として人に指示できる関係のみを〈権力〉と呼ぶのではなく、「世に出ることばやヒト」を選ぶことで「世に出ないことばやヒト」を区別できるのもまた権力である。
出版社が新人賞を開催し、特定の歌人が協力するというのは、出版社とその歌人たちが新人賞受賞歌人に対して権力を再分配することに他ならない(だからこそ、ある一部の歌人が自主的に集まって賞を行う、という権威主義的な振る舞いに対しても、私は賛成しない。せめて、責任ある主体(法人・個人)が明確に決まっていなければならない)。新人賞受賞歌人を選び、その者の歌に〈声〉を与えるということは、受賞歌人以外には〈声〉を与えないことでもある。それでもなお、出版社から付与・貸与された、〈選ぶ〉権力を行使するのが選考委員なのではないのか。選者なり選考委員には、その権力を行使する事態に注意深くあってほしい。

なお、物部は、このツイートについては加藤と正面からやりあうことを避けています。


感情への話題のすり替え ――中牧正太らとのやり取り

18:19、加藤は未だ問題点が理解できておらず、あくまで自分の目線で回顧録を書こうとした自分の無自覚さを擁護し、後々に「#Twitterの難しさ」へと論点すり替えを行う契機となるツイートを発します。そのツイートの問題点を指摘した中牧のツイートと共に見てみましょう。










中牧のこの指摘は、くだけた文体ではありますが、加藤の当初のツイートの問題点を指摘しています。加藤が

水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった

と書いておいて「ニューウェーブとの関わりにおいてということですか」ととぼけたのは私には意味が分かりません。

加藤は「恋はリアル」なる話題のすり替えをはじめ、中牧が「それは時代にあわない」と指摘していますが、加藤のリプが続きませんでした。



そもそも、近現代の短歌について

いや、作品とエピソード、
テキストとコンテキストは、切り離せない面があります

と述べるのは、加藤の考える「(文学的)読解・解釈」というものが、あまりに時代遅れすぎます*4。作品とエピソード(人間関係や容姿)をあわせた解釈を強なければ、豊穣な読解・解釈ができないほど、我々が信じ、好んできた短歌とは貧しいものなのですか?私は、そう思っていません。短歌が豊かであるからこそ(そして、そうあるべきだし、そうありうる世界が思い描けるからこそ)、私たちには要素をしっかりと分けて考えた現代的な分析・鑑賞も*5可能であると考えています。*6


もっと進められるかと思ったら、まだ2月19日……

一応、(2)や本稿は、1万字くらいで投稿しているのですが……まだ2月19日なんですね……。もうちょっとペースアップが図りたいところです

*1:自画自賛しますが、新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』の刊行前に、角川「短歌年鑑」2018年版の座談会で同書で扱われる内容を取り上げ、歌人の読解力にも警告を発したの、結構偉いと思いません?

*2:2019/12/03 12:35追記

*3:2019/12/03 12:35追記

*4:あと、加藤が「作品とエピソード」を「テキストとコンテキスト」と同じレベルで扱うのは、絶望的にダメだと思います。

*5:すなわち、「万人が短歌を分析的に鑑賞せよ」という話ではありません。個々人のレベルでは作品とエピソードを楽しむ鑑賞をしてもよいと思います。ただ、そういう鑑賞ばかりが短歌の鑑賞なのでもないでしょうし、ましてや短歌結社や新聞歌壇の選者を務めるレベルの文筆家には、色んな鑑賞を容認できるだけの豊穣さを求めたいところです。

*6:その観点から、一部有志で『分析美学入門』の読書会も実施してきました。こういう観点も、短歌には十分導入可能なはずです。

分析美学入門

分析美学入門