加藤治郎の2019年2月の発言を検証していきます。
以下、加藤以外についても敬称を略します。発言者については、基本的に本ブログ記事作成時点のアカウント名に準じます。*1
- 2019年2月17日の加藤発言
- てつろーによる指摘
- てつろーによる指摘の続き 2月18日に入って
- 「文学とは何ですか」ラッシュ ――加藤治郎による、回顧録の難しさへのすり替え開始
- かしもとゆきによる指摘
- 中島裕介からの指摘
- 睦月都からの指摘 ――加藤治郎による、ニューウェーブ論へのすり替え開始
- 加藤治郎による、「#Twitterの難しさ」へのすり替え開始
- @coopomisaki や黒瀬珂瀾、山崎修平による指摘 ――「ミューズ」という語の問題
- 理解を示したかに見えた、が……
2019年2月17日の加藤発言
加藤の《転落》は2019年2月17日に始まります。元々のツイートは消されていますので、まずはTwilogを引用しましょう。
twilog.org
なお、すべてのツイートを引用することはしませんが、加藤や他の発言者の文脈を毀損しないよう留意いたします。適宜Twilogや加藤自身のツイートを参照し、検証してください。
水原紫苑の美しさには
凄みがあったposted at 00:37:10
凄みのある美しさが、彼らを魅了した https://pic.twitter.com/b5ZFbzo3Vp
posted at 00:58:24
20代の水原紫苑は、フランス人形だった
原宿のアテネ・フランセで、フランス語教師の通訳をしていた
禿頭の教師だが、いいひとだった名前はフランソワだった
あるいは、そうでなかったかもしれない#ニューウェーブに女性歌人はいないのか https://pic.twitter.com/R28XxoYTdm
posted at 11:25:22
大塚寅彦のような地方都市の男は、イチコロだった
私は田舎者だが、東京の大学に通っていたので多少免疫があった
穂村弘は、水原紫苑の電話友達からスタートしたが、たちまち距離を縮めていった https://pic.twitter.com/lvgv5QPlNP
posted at 11:33:59
加藤のミューズ発言については、以下の記事が参考になります。この後の本件シリーズ記事においても、適宜他の記事を参照していきます。
- 中島裕介による「短歌研究」2019年4月号時評
- 川野芽生による「現代短歌」2019年4月号時評
sanbashi.hatenablog.com
こちらの高橋光路による記事は、2月19日時点で書かれており、かなり素早くかつ的確に問題が指摘されています。
blog.goo.ne.jp
blog.goo.ne.jp
blog.goo.ne.jp
また、2017年以降#MeToo運動が起こっており、
ja.wikipedia.org
2018年4月時点ではKaoRi.により、荒木経惟にモデルとして尊重されていなかったとする告発がありました。
note.com
https://www.buzzfeed.com/jp/akikokobayashi/kaori
これらの社会状況は、加藤の「ミューズ」発言を問題として受け入れるだけの土壌となっていたと考えます。
てつろーによる指摘
これらの発言について、てつろーが早い段階で言及しています。
いい加減にして下さい。あなたは今、「ミューズ」という言葉で水原さんを殺し、「地方都市の男」という言葉で大塚さんを殺しました。ミューズの写真ならフリー素材なのですか。「男/女」「都会/地方」等、他者をカテゴライズして消費しようとする強者的価値観を晒してそんなに楽しいですか。
— てつろー@冬コミ1日目・西て08a (@symphonycogito) 2019年2月17日
加藤の回答はこのとおりです。
こんにちは
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
これは、私の回想録なんです
30年前の私の視点で書いています
内心の自由は現代であっても30年前でも当然あります。ただ、回想録であるからといって、「【今、この現代において】加藤治郎が外部に述べる」ということの意味を加藤は無視しているように見受けられます。てつろーもその点を批判しています。かしもとゆきによる指摘についてもあとで言及します。
「ニューウェーブ歌人メモワール」は「短歌往来」(ながらみ書房)2018年2月号から連載しています
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
Twitter版 #ニューウェーブ歌人メモワール は「短歌往来」執筆のためのメモランダムやアウトテイクです
執筆の指針は、30年前から現在に至るまでの事実、自分の気持ちをありのままに書くことです
回想録だから、30年前の記録だから免罪符になるとお考えなのでしたら、まずはその、自分の回想は誰にとっても求められる善きものであるという前提を再検討して頂きたいですね。30年経てば他者への蔑みは時効ですか。回想するなら、過去の差別の再生産ではなく自己反省を書き残すべきではないですか。
— てつろー@冬コミ1日目・西て08a (@symphonycogito) 2019年2月17日
そして、あろうことか、加藤はこのてつろーのリプライに対する返答から見当違いな批判を開陳し、問題の所在をズラしています。
あなたは、編集者でしたよね
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
30年前の回想録です
そのときのありのままの心情を綴っています
文学とは何か
あなたは、どうお考えですか
あなたは、編集者でしたよね
てつろーが編集者だからなんなのでしょう。加藤の見解を擁護せねばならないとでもいうのでしょうか。また、
文学とは何か
あなたは、どうお考えですか
自分の回想録にある問題が「文学とは何か」に関わる、とさらに問題をずらしていきます。そもそも、てつろーが先に問題を指摘し、
回想するなら、過去の差別の再生産ではなく自己反省を書き残すべきではないですか。
と問いかけた点については、加藤は完全に黙殺しています。てつろーの質問に加藤は「文学とは何か」という質問で返しています。『ジョジョの奇妙な冒険』第4部であれば、吉良吉影に爆殺される局面です。
「質問を質問で返すなあーっ!!」(吉良吉影)
常識的なコミュニケーションであれば、「質問を受けた側はその質問に対する回答を行った上で、新しい質問を行う」と思われます。
加藤の、このようなコミュニケーション不全は今後頻繁に繰り返されますので、今のうちに「質問に質問で答える」ことの効果について挙げておきましょう「加藤にはこういう効果を生じさせる意図が常にある」とは思っていませんが、《少なくとも受け手にとってはこう感じられることが多い》でしょうし、それによる便益を加藤は受け取っているでしょう*2。
mental-kyoka.com
1 はぐらかしたい、話題逸らしのため
2 質問内容に対する不愉快、怒りの表現
3 会話の主導権を握りたい
4 相手に対してマウントポジションを取りたい
5 嘘を付くため、不都合な事実を隠し通すため
このいずれを加藤が意図していたとしても問題があります。話題を逸らしたり、不都合な事実を隠し通すのだとしたら文筆家として問題がありますし、会話の主導権を握ったり、マウントポジションを取ろうとするならば、それは極めて権威主義的な態度であるといえます。*3
この後も、中島等からの指摘にも関わらず、加藤は「質問を質問で返す」ことを繰り返していきます。
てつろーによる指摘の続き 2月18日に入って
当事者の言葉をある程度敬意を払いつつ受け取る姿勢は勿論私にもありますが、現在の観点からすれば明らかに他者への差別・品定めを含んだ回想を「そのときのありのままの心情」として反省も自己批判もなく記して、果たしてそれが文学でしょうか。少なくともあなたのそれは文学ではありません。
— てつろー@冬コミ1日目・西て08a (@symphonycogito) 2019年2月17日
こんにちは
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
私の言っているのは「ニューウェーブ歌人メモワール」全体です
ツイートは、その極一部で、私の水原紫苑論は、これから始まるところです
全部読んでから文学かどうか、判断してください
突如、加藤が、自身のツイートの話から「私の言っているのは「ニューウェーブ歌人メモワール」全体です」へと話題をすり替えています。これもまた大変に不誠実です。
「部分/全体」の話にすり替えるのはやめてくれませんか。あなたが「極一部」だと言った諸々の原稿メモ的ツイートは、仮に「極一部」であるにせよ「全体」の根底に関わる作者側の認識の欠陥が、これだけ批判可能な形で現れているのですから、むしろあなたという人間全体への信頼の問題でしょう。
— てつろー@冬コミ1日目・西て08a (@symphonycogito) 2019年2月17日
木を見て森を見ずではありませんか?
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
私は、経験的にTwitterという場のリスクを知っている
何も調べず、発言者の真意を考慮せず、言葉のイメージだけで発言する
Twitterにはそういう側面がある
しかし、あなたがそれでよいのか?
他者の30年前のメモワールに土足で入ってくる
そんなことでよいのか?
なお、ここで加藤は
私は、経験的にTwitterという場のリスクを知っている
という発言を行っています。「知っている」という表明が加藤からあったことを記憶しておいてください。
「ミューズ」や「地方都市の男」という言葉がどんな差別的認識を示しているのか、或いは含んでいるのかについて無自覚であることの方が、言葉という森を見ていないことになると私は考えます。他者の主体性を踏みにじらない方法での回想だって可能だったはずし、そういうものを読みたいです。
— てつろー@冬コミ1日目・西て08a (@symphonycogito) 2019年2月18日
はい
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月18日
おっしゃるとおりです
深く自覚し、改めます
ありがとう。
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月18日
「短歌往来」の「ニューウェーブ歌人メモワール」は、連載120回ぐらいの構想で書いています。
「他者の主体性を踏みにじらない方法での回想だって可能だったはずし、そういうものを読みたいです」
今後の執筆の指針となります。
他者の存在なしに、私の短歌はありえないからです。 https://t.co/7Ukw4YXIdg
てつろーは穏当に加藤の言動の問題を指摘し、加藤はそれを受けて「深く自覚し、改めます」、2月19日早朝には「今後の執筆の指針となります。他者の存在なしに、私の短歌はありえないからです」 と述べています。これで終わっていれば何もなかったのに……。今となっては本当に残念でなりません。
なお、濱松哲朗による詩客時評記事に、てつろーと加藤のやり取りの経緯とその問題点をまとめられています。こちらもご参照ください。*4
blog.goo.ne.jp
「文学とは何ですか」ラッシュ ――加藤治郎による、回顧録の難しさへのすり替え開始
時間を17日にまきもどします。加藤は、自身の発言をたしなめようとした人々に対して、「文学とは何ですか」という問いかけの形で反発していきます。
30年前の回想録を書いています
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
そのときの心情をありのままに綴っています
お願いです
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
「ニューウェーブ歌人メモワール」をお読みください
部分的な反応は、困惑します
これなど、加藤の反応が大変ひどいです。自分でツイートという形に切り出しておいて、「部分的な反応は、困惑します」と述べています。高速道路に徒歩で出ていって、車に轢かれかけたら「困惑します」と述べているかのようです。
文学とは何か
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
あなたは、どうお考えでしょうか
文学とは何か
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
あなたは、どうお考えでしょうか
自然主義リアリズムを必ずしも是とするものではありませんが、いかがですか
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
そして、問いかけた誰に対しても、加藤は「~が文学です」とは答えていない。中島に対してはかろうじて回答めいたものが示されています(後述)が、それも禅問答のような形であり、結局、ちゃんとした回答は一切ありません。「文学」を問いかけた文筆家の態度としては極めて不誠実でしょう。
物部鳥奈による「卑怯もの」という指摘が最も端的です。
ひとに喋らせておいてこのセリフってほんとに卑怯もの。 https://t.co/CNrCO2yNAA
— 物部鳥奈 (@shrike31) 2019年2月17日
もう回想録や評伝は書けなくなりますよ
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
治郎さんも文学とはなにかを先に言うべきですよ。あとだしじゃんけんは卑怯です。確かに、文学は規制のない自由な世界。それは承知しています。なにを言われても書けばいいですよ。でも、責任は伴います。責任を引き受けてこその文学です。岡井さんの名前を出さなくてもできますよね。
— 物部鳥奈 (@shrike31) 2019年2月17日
物部鳥奈の指摘に対して、結局自身の回顧録の書き方に問題がある、と散々指摘をされたというのに、2月18日0時の時点では結局何も分かっていないのです。この後にまとめる、睦月都による指摘によく現われています。
かしもとゆきによる指摘
本当に当時の、そして現在の、ご自分の「ありのまま」のお気持ちのまま、水原紫苑さんを貶めていらっしゃるのですか。それで良いのですか。ご自身の発言を今一度読み直されてください。お願いです。彼女に関わる一連のツイートは侮蔑以外のなんでもありません。撤回は恥ずかしいことではありません。 https://t.co/vzeo6udGzf
— かしもとゆき (@tohkofyuki) 2019年2月17日
30年前の回想録です
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
そのときの心情をありのままに綴っています
文学とは何か
どうお考えになりますか
返信ありがとうございます。一連のツイートが「その時の心情」の「ありのまま」であることは承知いたしました。しかし、加藤さん以外の大塚さんや穂村さんへの言及は本当に「ありのまま」でしょうか。私は若輩ながら大学で文学を学ぶ立場です。他者に言及する際は、必ず典拠を示すよう指導され、また→
— かしもとゆき (@tohkofyuki) 2019年2月17日
→んでいます。加藤さんへの疑問のまず一つ目はこの「大塚さん、穂村さんへの言及」です。そして、もう一つが、「水原さんへの言及」です。指摘させていただきましたように、水原さんへの言及は、女性性の神格化、象徴化、消費へと繋がる、他者への蔑視にうつります。文学は、人の過ち、反省、成長→
— かしもとゆき (@tohkofyuki) 2019年2月17日
(失礼しました、冒頭「学んでいます」です)
— かしもとゆき (@tohkofyuki) 2019年2月17日
→と共にあると考えています。文学とは社会と共にあるものだからです。ですから、「当時の常識」が「現在のモラル違反」になることは往々にしてあります。戦争肯定文学が認められないのと同じです。ですから、現在の視点から見直した時に、過ちであった→
思想を一度「ありのままに」書き、そしてその上で「しかし、今はその考え、態度が過ちだと思う」と書くことは、なんら問題のない「歴史の記述」であり、そのような自己反省の姿勢を持つことこそ、想像力のある者、文学を生み出すもの、創作者としての態度であると考えます。加藤さんは、いかがですか。
— かしもとゆき (@tohkofyuki) 2019年2月17日
かしもとの問いかけは客観的であり、自身の立脚点を示していて、問題点を列挙した上でかつ誠実だと私の目にはうつります。
現在の視点から見直した時に、過ちであった思想を一度「ありのままに」書き、そしてその上で「しかし、今はその考え、態度が過ちだと思う」と書くことは、なんら問題のない「歴史の記述」であり、そのような自己反省の姿勢を持つことこそ、想像力のある者、文学を生み出すもの、創作者としての態度であると考えます。加藤さんは、いかがですか。
という問いかけは、てつろーの指摘とも重なるものであり、文筆に関わる者が自戒すべきことが端的にまとまっています。しかし、加藤の回答はただ、周囲を戸惑わせるだけのものに終わります。
文学の死です
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
この状況は
それは、「ありのまま」を書くことが自由に認められない、と言う意味で、つまり、表現の自由が奪われたと言う意味で、「死」とおっしゃっておられますか?
— かしもとゆき (@tohkofyuki) 2019年2月17日
この、かしもとからの確認・問いかけには、加藤から何の返答もついていません。この返答の無さこそが、加藤が今後も繰り返す「俺の振る舞いこそが文学だ!ルールだ!お前らも従え!反論するな!」とでもいわんばかりの横暴な振る舞いをよく表わしています。
ここから複数のツリーにわかれてゆく話題も、加藤からかしもとへの一方的な質問や、話題のズラしから始まります。
あなたは、私が「ニューウェーブ歌人メモワール」を読んでいますか?
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
恐縮ですが雑誌媒体のものについては、毎月を購読しているわけではありません。しかし、ツイッターのものは全て読ませて頂いています。それに対する加藤さんのスタンスのツイートも拝見しました。
— かしもとゆき (@tohkofyuki) 2019年2月17日
雑誌の「ニューウェーブ歌人メモワール」が「正」です
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
Twitterには、執筆のためのメモランダム、あるいは、アウトテイクを掲載しています
承知しました。では、加藤さんのツイッター「メモワール」は誤りなのでしょうか?「メモランダム」、「アウトテイク」は誤りという意味は含みません。誤りであるなら、そう記載しなければならないと思いませんか?水原さんへの言及ツイートは、「正」ではない、と明言していただくことはできますか?
— かしもとゆき (@tohkofyuki) 2019年2月17日
水原紫苑さんの登場は、来年です
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
私は、短歌史を書いているのではありません
一歌人の回想録です
規範になっているのは
師である岡井隆の回想録ですが、驚くべき領域に踏み込んでいます
そういうことを思っていた、過去の加藤さんの態度や思想をを「誤り」と認めるのは、わたしは文学の死とは全く感じません。それは社会に応じて、社会をよりよくするために変容していく創作者の態度ではありませんか?
— かしもとゆき (@tohkofyuki) 2019年2月17日
かしもとからの真っ当な①語彙と②態度についての指摘に対しても、加藤は返信していません。
承知しました。では、加藤さんという一個人の、歌人としての回想録として、「メモワール」は書かれておられるのですね。でしたら、その上で、一人の女性歌人、二人の男性歌人を差別しておられる、ということを再度指摘させていただきます。加藤治郎という、歌壇への影響力の多大な、総合誌にページが→
— かしもとゆき (@tohkofyuki) 2019年2月17日
割かれるほどの「一個人の回想録」の「アウトテイク」が、他者を、現在のモラルに反する思想と態度によって傷つけておられることを、いかがお考えなのですか。これが、「正」の回想録の価値を、多大に貶めてしまうことは、お考えでないですか。この2点、お答えください。
— かしもとゆき (@tohkofyuki) 2019年2月17日
もう教科書的になるよね
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
型通りの、当たり障りのない、という意味で「教科書的」という語を用いられているなら同意しかねます。私の主張は差別を再生産しないでほしいということです。差別を再生産しないことが、「教科書的」なのですか。差別を産まずとも文学として最高のものを生み、それを回想することは可能です。
— かしもとゆき (@tohkofyuki) 2019年2月17日
加藤は結局、「自分の内心に関わる回想録であるから、自分の記述に他人が踏み込むな」というラインを引き、指摘や質問をはぐらかし続けるのみで、かしもとからの真っ当な指摘には何一つ答えていません。加藤のこれらの言動は、文筆家として一家言を持つ者の態度だとは考え難いです。
中島裕介からの指摘
以上のような状況を看過できなかった中島は、加藤に対してリプライを送ります。
@jiro57 加藤さん、「文学とはなにか」に答える、それ以前の話題です。同じ文章が、あるいは完成版が「往来」に載っていても同じく燃え上がるご発言です。回顧する以上、なんらかの時代の変化があるわけで、その変化に対応されていないものと思います。(あとは公の場で書きます)
— 中島裕介 (@yukashima) 2019年2月17日
そうですか
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
わかりました
あなたは、岡井隆の一連の回想録を読んでいますか
岡井さんの「挫折と再生の季節」「私の戦後短歌史」は何度も読んでいますが、それがどのように影響するのでしょうか?
— 中島裕介 (@yukashima) 2019年2月17日
ありがとうございます
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
岡井隆はかなり踏み込んで書いています
それが私の規範です
結局、「岡井隆はかなり踏み込んで書いています」という記述から、加藤自身が「岡井も自分の内心に従って無反省に書いているに違いない」という岡井に対して大変失礼な思い込みをしていることが窺えます。
はい、相応の批判はあるでしょう。他方、書籍とツイートでは問題の位相が異なって見えます。
— 中島裕介 (@yukashima) 2019年2月17日
この時点での私は少なくとも、書籍においては可能な〈誠意をもって言葉を重ねて説明する〉という手続きが、ツイッターという場においては困難である以上、加藤はツイートに切り出すべきではなかった(ということを自覚すれば問題が一定程度収束するだろう)と考えていました。
睦月都からの指摘 ――加藤治郎による、ニューウェーブ論へのすり替え開始
睦月都が2月17日昼の時点、てつろーの指摘から間をおかず行っていた指摘に対し、加藤は18日朝になってから回答します。
昨年の30年イベントについて、私は「歌壇と数字とジェンダー または、『ニューウェーブに女性歌人はいない』のか?」(短歌往来12月)という評論を書いた。
— 睦月都 (@xen_00) 2019年2月17日
この論に、私は加藤治郎氏の「女性歌人は天女的な存在」発言への批判を書かなかった。正直、真面目に論じる価値もない程酷いと思ったからだ。 https://t.co/oe7LqvoLHL
今、それを激しく後悔している。このレベルの話でさえも、なぜそれがいけないのか、誰かが丁寧に解説しなくてはならなかったのか。いや、もう皆既に説得を試みていて、それでもわからないのか。
— 睦月都 (@xen_00) 2019年2月17日
加藤治郎氏の水原紫苑氏への一連の言及ツイートは、「ミューズ」と呼んでその外見的、性的魅力のみをあげつらい、主体性を持った表現者としての水原氏とその作品を無視する、性差別的発言である。また、お名前の上がっている大塚氏、穂村氏へのセクハラでもある。彼らの名誉のため撤回いただきたい。
— 睦月都 (@xen_00) 2019年2月17日
私の水原紫苑論は始まったばかりです
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
作品の論考は、雑誌媒体で展開する予定です
ちなみに、17日の水原紫苑さん関連のツイートは、17日のうちに全て削除してあります
Twitterはもっとメモランダムを自由に投稿できる場と考えていますが、1ツイートで全て判断する人がいて当惑しています
次の睦月の指摘は、ここまでの問題点の整理にもなる。
誰もTwitterの使い方で怒ってませんし、回顧録を書くことを阻んでいません。その1ツイート(実際は複数回投稿されてますが)が女性蔑視であること、セクハラであることを批判しています。問題点は既に多くの方から指摘されています。今後の回顧録のためにも、今一度よくお読みくださるよう願います。
— 睦月都 (@xen_00) 2019年2月18日
しかし、ここで加藤はさらに問題のすり替えを行っています。
ありがとうございます
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月18日
私に甘えがありました
水原さんとの交友が前提にありました
睦月さんは「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」という問題提起をされています
短歌史上、ニューウェーブがどう語られてきたかを踏まえて、その上で、あなたの考えるニューウェーブ論を展開してはいかがでしょう
睦月さんは「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」という問題提起をされています
短歌史上、ニューウェーブがどう語られてきたかを踏まえて、その上で、あなたの考えるニューウェーブ論を展開してはいかがでしょう
なぜ、睦月がニューウェーブと女性歌人の関わりについて論じているからといって、加藤の性差別的な「ミューズ」発言と混同してよいことにはなりません。また、混同を睦月に暗に促すような言も慎むべきです。加藤は一晩経ってなお、自身の発言を「甘え」といいつつも、問題の切り分けが出来ていないのです。本当に「甘え」だったと思うならば、「睦月さんは~」などと切り返すようなことを厳に慎むべきでした。
加藤治郎による、「#Twitterの難しさ」へのすり替え開始
さらに、自身の発言に問題があったことを内心では認めたくないのか、今度はTwitterという場の問題へとすり替え始めます。
ありがとうございます
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
Twitterって、そんな厳密な場とは思っていませんでした
Twitterって、そんな厳密な場とは思っていませんでした
この発言が「午前8:36 · 2019年2月18日」。
木を見て森を見ずではありませんか?
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月17日
私は、経験的にTwitterという場のリスクを知っている
何も調べず、発言者の真意を考慮せず、言葉のイメージだけで発言する
Twitterにはそういう側面がある
しかし、あなたがそれでよいのか?
他者の30年前のメモワールに土足で入ってくる
そんなことでよいのか?
私は、経験的にTwitterという場のリスクを知っている
という発言が「午前8:57 · 2019年2月18日」。Twitterに対する理解が、たった20分で「思っていませんでした」から「知っている」へ一転します。その後も、ツイッターに対する理解度が二転三転することから、加藤にとってはツイッターに対する実際の理解度はどうでもよく、その局面や相手に応じて、言い訳を使い分けているに過ぎないものと思われます。
@coopomisaki や黒瀬珂瀾、山崎修平による指摘 ――「ミューズ」という語の問題
@coopomisakiはすでにアカウント自体が消去されているため、ツイートを追うことができません。加藤自身のツイートに問いかけが引用されているので、その一部が分かります。こちらも加藤による問題のすり替えが行われていますので、引用しておきます。
ありがとうございます
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月18日
① 作品の評価に作者という個人の属性や性質を不当に関連付けない
作品の評価は、これから書くことなので、こういった事実はありません
私の初期の水原紫苑論は『TKO』(五柳書院)にあります
よかったらご高覧ください
今後、水原紫苑の作品評価をどう書くか検討中です
これは真っ赤な嘘です。加藤のツイートを振り返っておきましょう
大塚寅彦のような地方都市の男は、イチコロだった
私は田舎者だが、東京の大学に通っていたので多少免疫があった
穂村弘は、水原紫苑の電話友達からスタートしたが、たちまち距離を縮めていった https://pic.twitter.com/lvgv5QPlNP
posted at 11:33:59
短歌におけるニューウェーブというある種の「文芸運動」*5に対して、「ミューズだった」と書いているのです。この「ミューズ」という語が、(次に示すツイートの通り)「シュルレアリスムにおけるミューズ」であったとしても(そうであったとしたらなおさら)、水原の創作者としての側面を捨象し、尊厳を奪ってしまう点で大問題なのです。
②(性的な)消費の対象として作者を扱うことを(せめて少なくともおおっぴらには決して)しない
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月18日
あの青年期の憧憬がそう捉えられたことに困惑しています
「ミューズ」は、アンドレイ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」の時代に、シュルレアリスムのミューズがいたということを踏まえています
この発言に関連して、黒瀬珂瀾や山﨑修平も指摘しています。
すみません、ちょっとだけ。シュールレアリズム運動期における「ミューズ」という概念はたしかに存在しました。しかし、それも現在では一種のアナクロニズムの中に想起される用語であって、現在では批判的に解釈されています。レオノーラ・キャリントンなどはかなり反発しています。
— 黒瀬珂瀾 (@karan_mirai) 2019年2月18日
シュールレアリズム運動というムーブメント自体がきわめて男尊的運動だったという指摘はかなり前から深く論じられている事柄でして、そこを無批判に受け継いでしまうのは、なんといいますか文学と人文智、思想史にとって大いなる損失であると思います。その前線に加藤さんはおられるわけですから特に
— 黒瀬珂瀾 (@karan_mirai) 2019年2月18日
加藤さん、こんばんは。横からすみません。ご存知かもしれませんが、シュルレアリスム期における「ミューズ」に関してでしたら、他にレオノール・フィニという画家もブルトンらが「ミューズ」と讃えることに反発し、女性の自立性を訴えていました。お時間ある時にお調べいただけると良いかと思います。 https://t.co/ddgZq7FEwd
— ShuheiYamazaki (@ShuheiYamazaki) 2019年2月18日
「シュルレアリスムのミューズ」という概念や用語を用いることに問題があることは、ググれば1分も経たずにわかります。「ミューズ」扱いされていた当人の一人であるレオノール・フィニについていえば
ja.wikipedia.org
特にブルトンに顕著に見られるように、女性芸術家を芸術家として認めるのではなく「ミューズ」として崇めるという、シュルレアリスム運動における女性の自律性の否認という矛盾を見抜いていた。
のであり、レオノーラ・キャリントンは*6
ja.wikipedia.org
シュルレアリストにとってのミューズである「ファム・アンファン(子どものように純真で、魅惑的な存在)」と称されたが、後に、「私は誰かのミューズになっている暇なんかなかった・・・家族に反抗し、芸術家になるのに精いっぱいだったから」と語っている。
「<男性>芸術家にとっての<女性>ミューズ=<男性>の創作意欲を刺激する【役割に押し留められた】女性」という枠組みに押し込められることで、当該女性の芸術家としての側面が捨象され、その尊厳が奪われてきたことが、そもそも、最初から問題になっていたのです。にも関わらず、
「ミューズ」は、アンドレイ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」の時代に、シュルレアリスムのミューズがいたということを踏まえています
というのであれば、それは結局、加藤が最初から「何一つ踏まえられていない」あるいは「踏まえたことで多数の人々の尊厳を踏ん付けている」に過ぎません。
加藤が「ミューズ」という語を安直に使った愚かさについては、川野や中島による時評のほか、次の佐々木遥のツイートも参考になります。
"ミューズ" という言葉を褒め言葉で使っているつもりだから何が駄目なのかわからないのだと思うけど、"ミューズ" という言葉がどのように使われてきたか知らないうえになにも考えずに言葉を使う人なのだな~~~となる
— 佐々木遥 (@sucrehecacha17) 2019年2月17日
①本人の意思関係なく他者が勝手にカテゴライズするときの言葉である
— 佐々木遥 (@sucrehecacha17) 2019年2月17日
②女性から人間性や主体性を剥がして客体化し消費する言葉である
③女性を "ミューズ" として評価することで「才能を認められたければ女は一人のふつうの人間であることを諦めろ」というメッセージを発してしまっている
そして、@coopomisakiはそういう加藤の態度が、水原に対する「性的消費」(性的モノ化)だと指摘したのでしょう。加藤の次のツイートはその指摘に対する返信だと思われます。
消費なんかしていないですよ
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月18日
理解を示したかに見えた、が……
ありがとうございます
— 加藤治郎 (@jiro57) 2019年2月18日
多くのツイートの中で、やっと私の理解の届く言説に出会いました
今は、自分の無自覚さを恥じています
そして、改めるのにまだ遅くはないだろうと思います
対話のドアは開けておくのが私のポリシーです https://t.co/FqOZR7iEW4
加藤は先述の佐々木のツイートを受けて、「自分の無自覚さを恥じています」と自身の言動の問題に気付いたかに見えました。しかし、「自分の回顧録は自分の好きなように書きたい」という欲求を隠し切れていないのか、このツイートの前後に、加藤が以下のツイートをリツイートしていきます。
加藤治郎先生ツイートの一部を消されたんだ。今回過剰に噛みついた人々の事、私は理解出来ない。このような『過敏な攻撃』は大嫌いだ。先生は誰かを貶めた訳ではないし、異性の素晴らしい歌人さんを性的にだけ見ていた訳でもない。憧れや恋情がわからない人がいるのか。尊敬ありきでしょう。
— 赤片亜美 (@amikaakika) 2019年2月18日
ただ、ある出来事を検証する仕事をしていて感ずるのは「当事者が語るところを妨げないで欲しい」ということ。いろんな立場の人たちが、自ら語り始めてこそ、ある時代の真実を復元できるから。
— 大島 薫 (@madara_nyankoT) 2019年2月18日
加藤治郎氏が、1980年以降の短歌史を如何に語るか
興味ふかく見守りたい
当方の言葉不足による無礼は御容赦
2月19日以降の動向は次の記事にします。
*1:私は元々「だ/である」調でモノを書くタイプです。なるべく「です/ます」調に改めていますが、改められていない部分があれば修正します。
*2:そして、この受け手にとっての「意味」が分からないようならば、短歌なぞさっさと辞めてしまうほうがよいと思います。
*3:権威主義的な態度でも通用する場面はあるでしょう。ただ、権威主義的な態度を取った上で「あなたとは対等です」とはいうべきでないでしょうし、権威を笠に着て「文学とは何ですか」などと問いかけるのは聞かれた側の恐怖や不安を招きます。
*4:2019年12月05日12:35追記
*5:文芸運動ではなく、ただのバズワード(流行り言葉)だった、ということであれば話は終わりです。その場合には、短歌における「ニューウェーブ」なんて語をまともに取り合う必要はありません。
*6:11月26日22:26、リンクミスのため修正