加藤治郎さん、あなたは贋物じゃありませんか?

連続ツイートとして用意していたのですが、長くなったので、ブログに記載します。相変わらず面白くならない話で申し訳ありません。これに「tanka」のタグをつけるのは情けなさすぎるので、私の個人日記的なタグのみをつけています。

【2019/8/7朝追記】本記事をご覧になられる際は、

を先にお読みいただくことをお勧めいたします。

「詩客」における時評連載の中止について

詩客の時評連載が中止となった件、先日公表されていたのですね。森川さん、ご公表ありがとうございます。
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他方、個人的には、お書きいただいた理由・背景を何度読んでも「やりたくない」以上には読み取れず、詩客(短歌部門)に対して、「ウェブ媒体としては無責任だ」と受け止めています。
なるほど、集団としての運営の体力に課題はあるでしょう。集団と言ってもあくまで(私にとっても参与者個々人の顔が見えるくらい小規模な)複数の個人であり、個々人の無理を強いるのは本意でありません。詩客という媒体が担ってきたこれまでの営為についても敬意を持っています。
しかし、他の記事は定期的に掲載するのに連載企画は止めることについては何ら説明がありません。問題の規模・性質に比して、詩客内での議論の経緯が不明瞭すぎると思います(企画に付随する問題が起こったなら、なぜそれらの問題について言及されないのでしょうか?定例の連載を休止してでもやるべき、という意見がなぜ出なかったのでしょうか?そもそも、問題が起きないよう、加藤さんへの事前の情報共有をすべきではありませんでしたし、本件企画の立案者・編集委員や執筆者の自由・自律・保護が最優先されるべきだったのではないのですか?それらについて、執筆者であった我々に対する説明が行われていない(一部の担当者からは伺いましたが、詩客を代表する形ではなかった)のは、端的に言って異常だと感じています)。
以上のことから、詩客側の企画中止とする判断の実質的意図を「やりたくない」だと受け止めました(運営体力不足も付随的な理由としてはあるでしょう。しかし、私はその体力不足に対する理解や協力を一切要請されたこともないまま、打ち切りの通告を受けたのみです)。
やりたくないものを無理にやらせるわけにも参りませんので、私は企画中止を受け入れました。その点では、私は森川さんをはじめとする詩客(短歌部門)の判断・意志を尊重します。


ところで、詩客の、加藤治郎氏を顧問として迎えていたことによって本件企画周辺に脅迫など複数の問題が発生したことの総括や、「詩客」顧問である加藤治郎氏による、2月以降のご発言に関する「詩客」としての総括はいつ行われるのでしょうか?連載に関わらず、加藤治郎氏を顧問としておられる以上、「詩客」(短歌部門)側に説明責任のある話かと存じます(解任が発表されたようにも見えません)。引き続きお待ち申し上げております。
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加藤治郎さんからの無反応について

いつになったら加藤治郎さん(@jiro57 )から、中島の「短歌研究」時評に対する「複数の重要な論点」をご説明いただけるのでしょうか?(まさか「Twitterからの<転載>」云々という幼稚な話が「重要な論点」のはずはない、と理解しています)

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また、いつになったら濱松さんや私の書いた詩客時評に対する【ご意見】が拝読できるのでしょうか?ご自身の仕事上のご経験から「結社のリスク管理は原則24時間以内」と謳っておられた方が、まさかご自身の発言リスクについて何ヶ月も放置なさるとは考えてもみませんでした。2月の時点でも、5月の詩客原稿掲載においても、加藤さんのことですから当然24時間以内に、私の存じ上げないところでご対応されたのでしょうね。

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(関係者に対する、脅迫による言論圧殺が<リスク管理>だとお考えだとしたら、リスク管理のプロから大笑いされるべきでしょう。――いや、どこかの国の<リスク管理>としては、政治家や官僚や警察機構からは大変高い評価を得られるかもしれませんね。)

加藤さんの、「短歌研究」2019年6月号への特別寄稿「ニューウェーブの中心と周縁」も論理が一貫していません。一つの記事の中で、ご自身の書かれたニューウェーブの記述に、紀野恵の作品は当てはまりません。それでもなお、紀野恵を「見出した」と仰る。

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わざわざ一貫性を持たない「特別寄稿」を編集部に出しておいて、それを「一見解」などと逃げ回る。twitter.com
「見出す」権利、権力が自分にあるかのように振る舞う、その権威的で傲慢な態度こそがニューウェーブに関する文学的議論を酷く阻害していること、読者たちから批判されていることが理解されない限り、少なくとも加藤さんのミューズ発言以降の諸問題は終結しないでしょう。

「中島の実施したかったのは自説の展開のみである」というのは確かにそうかもしれませんね。加藤さんは言いたくもないことをわざわざ「短歌研究」へ特別寄稿されたのでしょうから。えらいですね(分からない方のために念の為書きますが、皮肉です)。

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本物の氷山は溶けるかもしれませんね――環境の変化によって。温暖化が進むように、社会全体のジェンダー理解が進むことによって。
しかし、加藤さんについて言えば、表面的にすら溶けておらず、理解が進んでいるようにまったく見えません。「氷山」がどのような事態を生じさせたのか、応答も反省も反論も何一つ言明されないまま放置され、時間が無為に経過していくのは、どこかの国の政治家を見ているかのようです。 そのような態度の、どこが「溶ける氷山」だというのですか。「贋物の氷山」なのではありませんか。

私の心は冷え冷えとするばかりです。


加藤さん、ご自身のnoteの記事を読み返してみてください。2文目から私の詩客時評に対する無理解をわざわざ示してくださっていますね。

二人の論考は自らの心身を削ったものである。私は骨身にこたえた。

「自らの心身を削ったもの」? 加藤氏が本当に私の詩客の文章を冒頭だけでも読んでなお、こういう表現をなさったのだとしたら、散文を書かれるのも、諸々の選者も即刻お辞めになることをおすすめします。平易な散文すら読めているとは思えません。まして優れた韻文は(当人がいくら作れるとしても)今の加藤さんには読めないでしょう。
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自らが当事者である記事を指して、他人事のような「フェア」という評価をくだすとは何事か。

「フェア」だの「心身を削った」だの、対等の立場で応答もせず、上から目線で評価して逃げ回る人間に、他人の書いた文章の何が分かるというのか。何が書けるというのか。本当に「心身を削った」と理解したなら、もう少しまともに応答なさってはどうですか。


また、私がなぜこのように書いているのか分からないなら、相当に重症だと思います。「理解できない人は下がって」ください。本当に、本当に、一度立ち止まって、Twitterを含め、ネットから数年程度離れて、じっくりお考えください。


これは「まともに考えれば私と同じ考えにたどり着く」と申し上げているのではありません。加藤さんのご発言が自己矛盾に満ち満ちていると指摘しているだけです。「権力なんてないよ」といいながら、紀野恵を「見出し」、特別寄稿を編集部に依頼することができるような<権力棒>をぶんぶん振り回している姿を見て、「わが身を振り返ってください。それで「権力なんてない」は通用しませんよ」と申し上げているのみです。加藤さんご自身の発言内容の矛盾、すなわち、人々の不信を招き続ける言動の数々を、良しとしていないだけです。

(そういう、一貫性を持たない状況の加藤さんを論敵とせねばならない私の徒労が理解できますでしょうか?)


noteの記事で表向き理解を示しているように見せつつも、2文目から全くの無理解を態度として表明している(私が妥当でない、と書いたことをわざわざやっている)。内容には応えもしない。そういう振る舞いについて「表面的にすら溶けていない」と申し上げるのです。
それがご自身の文学表現だというのだとしたら、私はそこに表現的価値を一切認めません。リソースの無駄です。

せめて、贋物の氷山であろうと、本物の歌人として、真っ当な応答をなされることを願います。

ひとまず、以上です。