【プロトタイプ版】加藤治郎さん、あなたは文章が読めない

相変わらず、消極的な話題で本当に申し訳ありません……。
加藤治郎さんによる、「中島裕介に問う(2)」等一連のブログ記事について、後日詳述する予定ですが、分量が相当長くなる見込みであり、作成に時間がかかります。
note.mu
記事に先立って「はじめに」の二文(+α)に限って【プロトタイプ版】としてお応えしておこうと思います。
Twitterで書こうとしたんですが、こちらもまた20以上の連続ツイートになってしまったため、ブログ記事にしたものです。)

なお、本記事の前に、以下の記事と、そちらであげている詩客時評をご覧いただくことをおすすめします。
yukashima.hatenablog.com


「中島裕介に問う(2)」の「はじめに」にある2文に応える(その幼稚さについて記述する)

「現実の結社」について考える、とは

今の私に必要なのは、抽象的な論考ではない。現実の結社における具体的なプランなのだ。


(1)具体的なプランを考える上で、加藤さんにとって、抽象的な定義や本質論が必要ないのであればそれでよいのではないでしょうか。プランを考える上で、「結社とは何をする組織か」という定義や本質論が不要なら、「それ」は結社という組織形態である必要もありませんが。


(2)加藤さんが気にしているのは、「未来短歌会」や「彗星集(同会内の加藤選歌欄)」ではなく、「現実の結社」全般なのでしょうか?様態の異なる複数の結社に共通するような、具体的なプランが加藤さんにも私にも提示できるとは考えにくいのですが・・・。


(3)では、未来短歌会が結社としての機能を改善・強化する上で、結社の定義や、未来短歌会のミッション等が不要なのですか?
未来短歌会が結社としてあるべき姿から、具体的なプランを模索することはできます。仮に同人誌集団であるなら、無くてよい機能・イベントもありうるでしょう。


(4)また、私は別に、現実の(複数の)結社や、未来短歌会を改革したいと考えていません。私が「再定義」評論で述べたのも、あくまで「各結社が自己点検せよ、目的に応じて改めよ」であり、改革が必須なのではありません。
加藤さんが、ご自分の短歌結社の定義に従って、未来短歌会やそれ以外の結社の体制に口出ししたいならば、お好きになさればよいと思います。私はまったく付き合いませんが。

中島は結社制度も選歌も否定していません

中島は、自ら高いリスクを引き受けて〈選〉を否定した。

中島は「〈選〉を否定」していません。「短歌の上での対等な関係を保つべく、加藤さんの選歌を私が拒否」しただけです。
私が1首しか出さなかった理由には「加藤さんの選者としての能力」すら無関係です。


また、「短歌結社の再定義」を読めば私が選歌制度そのものを否定していないのは明白です。

ヒエラルキーを内包する仕組みづくり、師弟関係や選歌制の導入もまた、解釈戦略を共有する手段の一つであろう。現在に至るまでの教育的な、解釈戦略の伝達効果に鑑みれば、ヒエラルキーは全否定されるべきものではない。」
(「短歌結社の再定義」4(2))

加藤さんと中島の人間関係に限って言っても、同じ結社にいようが、選者と一会員という立場の違いがあろうが、「選を受ける」ことより「人間関係として対等な立場を保つ」ことのほうが大事だと考えただけです。
それを、中島がどこにも書いてもいない「〈選〉を否定」などと加藤さんに書かれるのはまったくもって、「再定義」評論に対する読解力が皆無であり、私に対して失礼であり、舐めているとしか思えません。
「選歌」が「結社」の存在要件であるとは私も述べていません。ましてや、「加藤さんの選歌」を「拒否」したことが、「選歌」という制度全体の「否定」になったり、「結社」という仕組みの「否定」になるわけがありません。*1

加藤さんには昨年12月の「再定義」を論じる会へご参加いただいたにも関わらず、中島が丁寧かつ具体的に記した部分を無視され、中島が論じていないかのように述べられるのは大変残念であり、かつ「問」われた者として大変不快です。「再定義」について書いてくださるならばまず読み返してください。

選者ってなんだとお考えですか?

未来短歌会という「先生」という呼称を否定する組織にいてなお、「先生」という呼ばれ方を加藤さんが拒否していませんよね?
「選」をする=掲載作品から外すように、「先生」という呼称をたしなめるべきなのに、加藤さんはそうしない。その程度の「選」者が、歌の何を「選」できるのですか?

とはいえ、加藤さんは本年11月の定年をもって、選者を退かれるはずですから、このあたりの倫理の実践は、加藤さんご退任後の選者の方々にお任せします。

(なお、当然のことながら、また、予定も噂もありませんが、加藤さんとやり合っている私に対して、未来短歌会の選者への打診があったとしても、お請けすることは道義上ありません。)

TPOについて考えてください。

加藤治郎(@jiro57)さんが私の言動について気になったことを私に問うていただくのは結構なことですが、TPOを考えてください。

濱松さんの詩客時評や、加藤さんのハッシュタグ「# Twitterの難しさ」に対して私が行った抗議、私のブログ記事「加藤治郎さん、あなたは贋物じゃありませんか?」(http://yukashima.hatenablog.com/entry/2019/07/25/180640)、脅迫事案など、ご応答いただくべき記事・文章がまだ山ほどあります。

私の文章すらまともに読めていない状態で、多くの方の問いに十分な回答もしておられないのに、論点をずらして、自分語りを好き放題書いておられるのを拝見すると、心が冷え冷えとします。加藤(@jiro57)さんにはいい加減にしていただきたい。
問う前に、主だった記事全てにご回答ください。

権力者らしい言動

「中島裕介に問う(1)」まで視野に入れれば、加藤さんは「無選歌の人間には結社はいらない」と言っているかのようです。未来短歌会を代表する歌人の多くを否定されるのですね。
そういう言動こそが、権力者のそれだ、と申し上げているのです。無償だろうが労力を支払っていようが無関係です。

「応えて(4)」にいたっては、虚子と久女の事例を挙げ、その直後に「結社の師弟関係がこの伝統詩を未来に繋げることを望む」と述べる。「師」たる自分が「弟」たる中島に対して、除名・拒絶を望んでいるとしか読めません。

これが未来短歌会のやり方ですか?

私が15年以上属してきた未来短歌会という場や組織、あるいは会員が望むやり方とは思えません。

ただの「今の加藤さんのやり方」です。そして、それは間違っています。反省し、「今後の加藤さんのやり方」に向けて改めていただきたい。


ひとまず以上です。

*1:加藤さん以外の方は十分お分かりのことと思いますが、加藤さんはこの時点で「選歌のない結社は、結社ではない」という、加藤さん独自の結社の定義に基づいて、一部の結社の存在を否定しています。加藤さんですら、定義等抽象的な議論抜きに、具体的なプランを考えることができないのです。「今の私に必要なのは、抽象的な論考ではない。現実の結社における具体的なプランなのだ。」と大見得切っておいて、noteでやっておられることは「自分の抽象的な考えに応じろ」という、幼稚で自分勝手な欲望の開陳でしかないのです