【本編】加藤治郎さん、あなたは文章が読めない(15)8月20日~9月

(13)では、加藤が8月19日までに投稿したnote記事を確認しました。今回は20日以降のnote記事とツイートを確認し、9月4日に投稿されたnote記事「中島裕介に問う(2)」まで進めたいと思います。
加藤が9月に投稿したツイートは622(リツイート含む)。加藤の歌集刊行に向けて、Twitter上の広報を積極的に行っていた時期にあたります。

8月26日、加藤はnoteに「中島裕介に応えて(4)」を投稿

note.com


26日23:50に投稿されたこの記事は中島の詩客時評に対して応答する体裁になっています。
blog.goo.ne.jp

この記事に書かかれていることは概ね真っ当で、27日に読んだときには多少安堵しました(同日夜にまた深く呆れるのですが)。雲行きが怪しくなる「3. 権力について」の後半にだけ触れておきましょう。

 一つの苦い出来事があった。同じ短詩型の結社で起こった高浜虚子と杉田久女の件である。(中略)そして、1936年、虚子は何の予告もなく「ホトトギス」同人から久女を除名した。結社においては死刑宣告に等しい。久女は奈落に落とされたのである。師弟関係が絶対となったときこういう悲劇は起こり得る。

 私は、選が最も単純で厳しい批評であることを望む。また、結社が多くの人々へ作品発表の場を提供する組織であることを望む。そして、結社の師弟関係がこの伝統詩を未来に繋げることを望む。そして、不当な力を自分から遠ざけたい。道半ばであるというほかないが、光の差す方向に歩いていきたい。

虚子と久女のエピソードのように<師弟関係が絶対と>なると問題がありますね。


加藤治郎が2003年に未来短歌会で選歌欄を持つにあたって、中島は加藤から入会を打診されましたが、虚子と久女のケースのような事態を危惧したため、入会前に「加藤の経験や年齢等を尊重するが、師弟関係ではないこと、物書きとしては対等であること」を加藤と約束したのでした。残念ながら私のPCが過去に何度かクラッシュしてしまったため、当時のメールのデータは残っていませんが、この点は2003年の私の未来短歌会入会以降、たびたび加藤と口頭で確認をしていました。
この点は後にもかかわってきます。


中島は27日昼に加藤の記事に気付き、以下のようなツイートを投稿しています。


加藤の記事には「結社の師弟関係がこの伝統詩を未来に繋げることを望む」という言説がありますが、私は「すべての短歌結社の本質が師弟関係にあるのではない。選歌や師弟関係は結社の手段である」ということを2018年の段階で「短歌結社の再定義」で示していました。別に「加藤が<師弟関係がこの伝統詩を未来に繋げることを望む>」のは加藤の好きにすればよいのですが、「結社の」と書かれると主語の規模感が異なるため、話がずれてしまいます。加藤はこのような主語や話題のすり替えを大変頻繁に行います。

(了)

「えっ、あれもこれも残ってるのに終わるの?!」と思ったのでした。

8月27日、加藤はnoteに「中島裕介に問う(1)」を投稿

「中島裕介に応えて(4)」の投稿から約20時間後、「中島裕介に問う(1)」が投稿されます。


note.com*1


まず、事実誤認がありますので、説明しておきます。

中島裕介が短歌結社誌「未来」に「月に一首だけ出す」理由が示されていた。伊舎堂仁のnoteに掲載された「山﨑修平インタビュー 20190705」にある。つまり、山﨑が中島に問いかけたという入れ子式の内容である。

加藤は「山﨑が中島に問いかけたという入れ子式の内容」と認識しています
https://note.com/gegegege_/n/n7b8339a5e802note.com
が、記事全文を見ればわかるように「(20190705 新宿)」の時点で伊舎堂から山崎へのインタビューは終わっています。よって、この「(※1)山﨑:あとは中島裕介さんですかね。やっぱり。僕が入ったときからずっと月に一首だけ出す、っていうことをされてるんですけど。」*2という註について、私に問いかけたのはインタビューを行った伊舎堂です。事実として、私は伊舎堂からの質問を受けて回答しました。

(2022年1月29日追記)
元のnoteが非公開となっています。とはいえ、本記事で引用しているとおり、加藤が自身のnote上で「山崎が中島に問いかけた」としている記述は事実誤認であり、加藤の読解力不足です。伊舎堂の了承を得て、伊舎堂と私とのDMを転載いたします。

「中島が結社を否定した!」と言い出す

続けます。

選歌は、結社の根幹である。つまり、①(「選者に選をさせないため」に「未来」に一首しか送稿していなかったこと:中島註)は、結社否定論の実践なのだ。ことによると今世紀の最も先鋭な結社否定論ではあるまいか。

率直に申し上げて、加藤のこのご発言は大変ひどいと思います。「選歌は、結社の根幹である」という加藤の思い込みがあり、勝手に「つまり、①は、結社否定論の実践なのだ」と中島が短歌結社を否定したことにしてしまいます。自身の思い込みを大前提に、私が言っても書いてもいないこと、ましてや「短歌結社の再定義」の記述とは真逆のことを、私が言ったり書いたりしたかのように批判する——すなわち藁人形論法で批判されても、呆れるしかないのです。これが未来短歌会や毎日歌壇の選者にふさわしい読解力なのでしょうか。


(なお、2018年12月に東京・新宿で開催した「『短歌結社の再定義』を読み論じる会」に加藤も参加していました。加藤は、私の評論を事前に読み、複数人で論じる場にまで参加したのに、私の評論が読めていないのですから、加藤の言いがかりは私にしてみれば災難でしかありません。)
yukashima.hatenablog.com

【為念】拙稿「短歌結社の再定義」の要約、意義

長いので、要約と意義を転載しておきます。
yukashima.hatenablog.com

【結論(要約)】

  • 短歌結社とは「短歌の読み方を共有するという目的のために、一定の約束のもとに、基本的には平等な資格で、自発的に加入した成員によって運営される、生計を目的としない私的な集団」である。
  • 結社誌の発行や歌会の有無は、「短歌の読み方を共有する」という目的を達成するための手段であって、目的ではない。
  • 「短歌の読み方を共有する」という目的の徹底保持にのみ「短歌結社のこれから」がありうる。


【意義(先行研究と、それらとの違い)】

  • 菱川善夫「同人誌本質論」:結社の本質は同人誌にも含まれる、というもの。水平的な人間関係。
  • 永田和宏「王国の秋――第2世代の課題」:結社の本質は師弟関係にある、というもの。垂直的な人間関係。

がある。本評論はこの先行する2評論を統合し、同人誌や師弟関係を結社の機能として捉えた場合に、どのような効果が求められているのかを、結社の目的から明らかにしたもの。そもそも、人間関係から結社を定義することに、今や意味がないのである。

意義の末尾の「人間関係から結社を定義することに、今や意味がないのである」に記したように、垂直的な「師弟関係」であっても、水平的な「同人誌的仲間関係」であっても、人間関係から結社を定義しようとすることに、「短歌結社のこれから」を見出すことはできません。

加藤はやっぱり文章を読めない

「短歌結社の再定義」では、短歌結社における選歌の位置づけについても繰り返し述べています。

短歌結社は「各短歌結社が持つ、短歌の読み書きに必要な解釈戦略を共有する」ことを目的とする。その共有の一般的な方法・手段として、実際には、選者による選歌や結社誌の刊行、歌会・勉強会・研究会・大会等の開催などが行われている。それらの活動は、あくまで、解釈戦略を共有するための手段であって、目的そのものではない。

このように、シンプルに「選歌は短歌結社の手段であって、目的ではない」と書いています。また、

ヒエラルキーを肯定し、組織に内包する短歌結社は、短歌結社の組織形態の一つである。ヒエラルキーを内包する仕組みづくり、師弟関係や選歌制の導入もまた、解釈戦略を共有する手段の一つであろう。現在に至るまでの教育的な、解釈戦略の伝達効果に鑑みれば、ヒエラルキーは全否定されるべきものではない。

「選歌制の導入もまた、解釈戦略を共有する手段の一つ」とまで書くことで、中島は(自説にとっての)結社における選歌の位置づけを整理し、明確に肯定しています。


私は選歌について肯定的な認識をもった上で、加藤と対等であるために未来短歌会に1首のみを送稿する形を取っていました。<会員間(加藤と中島)の対等性を護持するために、選歌という短歌結社にとっての一手段の実行を、たった一人の会員が、自身を対象にする場合に限って停止させようとしたこと>の何がどうなったら加藤の中で「結社の否定」になるのでしょうか。短歌結社自体の全手段を封じたわけでもなければ、他の会員への選歌も、選歌を望む会員の存在も否定していませんし、結社の存在意義は選歌にあるわけではないことまで予め示しているのに、です。加藤の中で「選が結社の根幹」という思い込みがあるとしても、それが結社の否定につながるとまで思考を飛躍されてしまうと、さっぱり理解できません。


また、ちょっと考えればわかることですが、加藤の言い分に従えば、選歌が行われていない短歌結社(たとえば「玲瓏」)は短歌結社ではないことになります。加藤は選歌のない結社の代表者や会員の前で「あなた方は、選歌がないから短歌結社ではない」と明言できるのでしょうか。

「まずは「選者に選をさせない」という発言の真意を問いたい。」

この記事の末尾は

まずは「選者に選をさせない」という発言の真意を問いたい。

ということでしたので、早速ツイッターで答えていました。8月27日の中島のツイートを貼り付けておきます。


中島からの回答に対する、加藤の見解が「中島裕介に問う(2)」になります。

(気が向いたら2020年以降に書くかも)もしも選歌が教育であるならば、選者はどのような教育者であるべきか

(気が向いたら2020年以降に触れるかもしれません。批判的教育学(クリティカル・ペダゴジー)に関する主な議論、特にアップル、フレイレ、ジルー、ランシエール、楠見孝らの議論を追い、短歌界隈や短歌結社における(解釈戦略などの)伝達/教育のあるべき姿と改善点について検討します。シンプルに言えば、「教師を批判し、乗り越えていく者を育成すること」が現代における教育の意義だと考えます。その点、「中島裕介に問う」を発表するまでの加藤は、加藤を批判し乗り越えようとする中島を<育成>した点で、現代短歌結社における適切な<教師>であった可能性がありました。残念ながら、そうではなかったことが明らかになったのですが。)
(このテーマについて気になる方がおられましたらお気軽にお問い合わせください。一緒に考えたり、書いたりしましょう。)

9月4日、加藤はnoteに「中島裕介に問う(2)」を投稿

私のツイートを受けて、加藤は「中島裕介に問う(2)」を投稿します。
note.com

9月6日、中島ははてなブログに「【プロトタイプ版】加藤治郎さん、あなたは文章が読めない」を投稿

加藤の見解に対して、中島は9月6日に「【プロトタイプ版】加藤治郎さん、あなたは文章が読めない」を投稿します。まさに、このシリーズ記事のプロトタイプ版にあたります。加藤の「中島裕介に問う(2)」への反論の一部をここに書きましたので、適宜ご確認ください。
yukashima.hatenablog.com

その他の回答・見解

その他、プロトタイプでは触れなかった部分について見解を示します。

「未来の結社」 (≠未来短歌会)

中島がどういう未来の結社をプランしているのか、それを聞きたいのだ。

拙稿「短歌結社の再定義」に記してありますので、ちゃんとお読みください。以上です。


再度述べますと、加藤に「しかし、今の私に必要なのは、抽象的な論考ではない。現実の結社における具体的なプランなのだ。」と言われても、私は「短歌結社の再定義」に「短歌結社の規模がどれだけ縮小しようと、短歌結社全体がどのような苦境に陥ろうと、短歌結社は文学的理念・解釈戦略の共有という目的や本義を最後まで守り抜くべきであり、最も尊重するべきだ。目的こそが、短歌結社を短歌結社たらしめている。」と書いた通り、自らの目的を見直し、それに沿った手段を各結社が考える以外にありません。すべての短歌結社に効く<万能薬>などありません。


「未来短歌会にとっての具体的なプラン」というならば私にも理解できましたし、加藤と私は一緒に考えることができたことでしょう。大変残念です。

加藤の選歌の拒否は、機会損失か

選歌の否定は、リスクの高い行為の実践である。機会損失と言った方がよいかもしれない。次のような機会損失が想定される。
① 作品発表の機会損失

未来短歌会において、会員は、毎月10首投稿できる。その機会を自ら放棄した。具体的には、年間で、9首×12カ月=108首の放棄である。5年間では、540首となる。歌集が1冊出せるボリュームだ。

月に1首しか投稿していないからといって、月1首しか作っていないわけではありません。伊舎堂からの質問にも「寡作だから」と答えています。

同時に批評の機会も喪っている。結社誌に作品が掲載されれば、批評される機会がある。

未来短歌会の、優れた批評者の目に触れないことは多少残念に思いますが、それよりは「自分にとって納得のいく歌を作ること」そして「加藤との関係を対等に保つこと」のほうが大事だから、です。

歌会でも、より多く批評を受ける機会が生まれるのだ。

未来短歌会の各選歌欄が毎月開催している歌会で1首しか扱われないのであれば、1首で十分なのではないでしょうか。

② キャリアの機会損失
〈選〉は、歌壇の根幹を成す。〈選〉を否定することは、結社誌、総合誌、新聞、短歌大会等々、歌人としての将来のキャリアを喪うリスクが高い。

ひとまず「〈選〉は、歌壇の根幹を成す」という前提が正しいとしましょう。
「〈選〉を否定することは、結社誌、総合誌、新聞、短歌大会等々、歌人としての将来のキャリアを喪うリスクが高い。」というときの「歌人」は、「生き方」や「存在様式」としての歌人ではなく、歌壇に属して活躍し、キャリア形成してゆく「職業」としての歌人ですよね?加藤はそんなものを中島に求めているのですか?


加藤の『うたびとの日々』の帯には「歌人は職業ではない。歌人は存在様式である」とあります。ご自身が否定的に書いた、「職業」としての歌人のありようを中島に求めるとは……呆れるほかありません。私は、私の存在様式を自ら考えて、それを生きます。加藤に「かく生きるべし」と(まさにフーコーが述べたような「生の権力」まる出しで)言われる筋合いはありません。

歌人〉の〈信頼〉

③ 結社に所属する歌人の信頼
私のような風変わりな歌人は少数である。おおよそ、歌人は〈選〉を受け入れ、結社の根幹としている。内輪のことであるうちは笑い話で済んでいたが、それが文書化され、公言されたことの影響は大きい。しかも、失言ではなく、確信的な言辞であった。歌人の信頼を喪うリスクが高い。

これだけのリスクがあるのだ。それを引き受けて、いったい何がやりたいのか。なぜ、結社に居るのか。
それに見合うものは、正に、結社の未来の構築ではないのか。それを聞きたいのである。

そもそも私は「選歌」という制度を否定していないので、「中島が選歌を否定した!」と言われることで信頼を喪うのだとしたら、すべて、私の言動をでっち上げて批判した加藤のせいですね。


なぜ「加藤と対等であろうとする」ことが、歌人からの信頼を喪うのでしょうか?文筆活動はほとんどの場合一人でやらねばならないのですから、基本的には一人で行うのが当然です。ただの習いごとで、<先生>と呼ばれる人から一方的に教えてもらうだけならカルチャースクールでよいでしょう。仲間と高め合いたいなら、同人誌でよいでしょう。もちろん、仲間がいると大変ありがたいですし、一緒に考えたり、書いたり、議論したりする仲間と切磋琢磨するのはとても楽しいことです。
私は京都精華大学で教えていた岡井隆の公開講義の受講にはじまり、学生短歌会やその他様々なグループで学び合ってきました。それでもなお、結社だからこそ得られる仲間(人によっては<先生>や先輩や弟子と呼ぶような人々を含め)から学ぶことがあると信じたから結社に入りました。その<結社だからこそ>とは、すべての結社において本質的に、選の有無が関わるのですか?私はそうは思いません。
(加藤が、未来短歌会に限った、あるいは加藤と中島の関係の話をしているというならば、加藤の文章力に重大な問題があります。)


<先生>や先輩といった目上の人間であっても、文筆において、あるいは人として間違った言動をしているならば、それを指摘しないのが加藤のいう「歌人という存在様式」なのでしょうか。*3*4
「(すべての)結社の未来の構築」などという大それた話ではないのです。結社に所属する前に、尊厳を持つ一人の人間であるというだけです。尊厳を棄却しなければ成り立たないような*5短歌結社などさっさと滅びればいいのです。「中島は加藤治郎の選歌を受け入れなかった」という一点で喪うような<信頼>は、塵紙ほどの価値もありません。
未来短歌会はそのような排他的で愚鈍な<信頼>を尊ぶ人々の集まりではない、と信じたからこそ私は入会したのです。


また、加藤は後日、中島とのLINEで「中島は、未来短歌会に選歌があることを知らずに入会したのですか?」という、大変ひどい問いかけをしてきました。当然選歌の存在を知って入会しています(選歌の存在を知らずに入会したのであれば、勧誘した際に説明しなかった加藤が悪いことになります)。当然、加藤の選歌に問題があるならば、私が選歌欄を移るなり、退会するなりすればいいでしょう。そうではなく、「加藤の選歌を受ける」ということ自体が含み持つ権力性・権威性に、私自身が絡め取られないようにしただけのことです。未来短歌会入会前に加藤と結んだ「対等である」という<人間関係>の約束を大切にし、守るためです。「中島裕介に問う」の記事を通じて、加藤にとっての中島との人間関係は結局「対等」ではなかったことが明らかになり、加藤の態度と記憶力に心の底から失望しました。

9月14日、告発を受け取ります

中島は(3)(現在非公開)で記したAからの告発を受け取りました。

9月15日、加藤から中島にLINEのメッセージが届きます

ここで本シリーズ記事(1)に時間軸がつながります。
yukashima.hatenablog.com

9月は加藤は歌集の広報に努め、noteの更新もストップします。

(短く終わらせるつもりがとても長くなってしまいました…)

*1:加藤のnoteには同じタイトルで2回投稿されていますが、2回目の投稿にあたる19:33版を参照します。19:29版のリンクも念のためこちらにつけておきますnote.com

*2:この口ぶりは、私には「問いかけ」に見えないのですが

*3:個々人の位置と尊厳を忘れないために、未来短歌会は選者を「先生」と呼ばないようにしてきたのではないのですか。少なくとも、「未来短歌会ではみんな<さん>付けで呼ぶ」ことの意義を私に最初に語ったのは加藤です。それを「加藤と会員の人間関係はそれぞれ異なるから」といって、加藤が安易に自らを「先生」と呼ばせてきたことは変節であり、未来短歌会にとっての害悪だと私は考えます。存在様式も、加藤との人間関係が各人において全く異なるからこそ、「先生」と呼ぶことだけは等しく禁じなければならなかったのではないのですか。

*4:その上で、別に全員が文筆家なり歌人なりとして一人で立たなければならないわけではない、ということも記しておきます。短歌へのいろんな関わり方があり、何一つとして否定されるものではありません。

*5:戸塚ヨットスクールのような