第36回現代短歌評論賞落選作「短歌結社の再定義 ――解釈共同体としての短歌結社」
落選したので、公開します。(2018年9月20日夕方に公開)
※本稿の意義。主な先行研究/評論には(2019年9月12日追記。2019年9月15日さらに追記。)
- 菱川善夫「同人誌本質論」:結社の本質は同人誌にも含まれる、というもの。水平的な人間関係。
- 永田和宏「王国の秋――第2世代の課題」:結社の本質は師弟関係にある、というもの。垂直的な人間関係。
がある。本評論はこの先行する2評論を統合し、同人誌や師弟関係を結社の機能として捉えた場合に、どのような効果が求められているのかを、結社の目的から明らかにしたもの。そもそも、人間関係から結社を定義することに、今や意味がないのである。
結論(要約)
- 短歌結社とは「短歌の読み方を共有するという目的のために、一定の約束のもとに、基本的には平等な資格で、自発的に加入した成員によって運営される、生計を目的としない私的な集団」である。
- 結社誌の発行や歌会の有無は、「短歌の読み方を共有する」という目的を達成するための手段であって、目的ではない。
- 「短歌の読み方を共有する」という目的の徹底保持にのみ「短歌結社のこれから」がありうる。
※賞自体の課題は以下のとおりでした。本稿はこの課題に対して応答したものです。(2018年11月26日追記)
「短歌結社のこれから」のために、いまなすべきこと。
※賞に応募した際の主旨要約は以下の通り。(2019年1月18日追記)
大野道夫『短歌の社会学』の批判的検討を経て、短歌結社という組織形態の再定義を図り、組織としての理念や目的が不可欠であると論ずる。次に、アメリカの英文学者・フィッシュの「解釈共同体」「解釈戦略」という概念を援用し、解釈戦略、すなわち短歌の読解・制作に要する文学的理念こそが短歌結社を形成することを示す。短歌結社各々が自らの文学的理念と、それに応じた組織形態を確認・再検討することこそが、喫緊の責務であることを主張する。
本文を通読する時間のない方は、本文中の下線が引いてあるところを読むだけでも論旨が分かるようになっているはずです(下線は応募時のとおり)。
本文
1.はじめに
「短歌研究」一九五九年四月号から、編集部による「現代短歌結社の研究」という連載が全四回掲載されている。その第一回に以下のような一節がある。
現在、歌壇結社の中で、いちおう文学理論を持ち、文学運動を行為するものはそう多い数ではない。(中略)しかし、この中でも本当に理論的追求がなされている文学論を持つものは、四五誌にしかすぎない。
明治末期以来、結社がその存在を主張し、明確化していったのは、結社が文学理論を持ち得たからであり、文学運動を行為したからである。(P.52)
短歌研究編集部と同様の指摘はこの後も複数ある。たとえば、菱川善夫は「土台、今日、諸結社、諸流派の夥しい分立の前で、文芸理念を旗幟鮮明にしているところが一体いくつあるであろうか」(「短歌」一九六六年三月号、P.58)と嘆き、高安国世は「今短歌の結社は(中略)『共同の目的』、言いかえるならば一々の結社の主義主張というものがどれほど明確であるのか。むしろそれが曖昧であったり、ほとんど無いに等しいものが多数にのぼりはしないか」(「短歌研究」一九七八年四月号、P.52)と懸念を表明し、篠弘は「結社としての集団はあるが、文学運動はない。これが現在の歌壇における状況ではあるまいか」(「短歌研究」一九七九年四月号、P.24)と述べる 。*2
戦後に限っても、第二芸術論や「八雲」一九四七年五月号における折口信夫と臼井吉見の対談などを視野に入れれば、七十年以上も短歌結社をめぐる様々な指摘が続いた。さて、そのような指摘があった現在においてなお〈文芸理念を旗幟鮮明にしているところが一体いくつあるであろうか〉。
光森裕樹は『短歌年鑑』の「全国結社歌人団体 住所録・動向」に基づき、結社数の動向を調査している*3が、この調査によると短歌結社の数は一九八〇年から二〇一二年にかけて、335から260へと22.4%減少、結社誌への出詠者は46%も減少している。光森は二〇〇九年から二〇一四年までの五年間でも短歌結社数がさらに14.6%減少していることをも明らかにしている。この減少傾向が日本社会全体の高齢化に伴うものであるならば、下げ止まることは当面ないだろう。
光森が指摘したように、全体としても個々の組織としても弱体化しつつある短歌結社では、短歌研究編集部や篠がその不在を嘆いたような文学運動はかつて以上に期待できないだろう。〈結社としての集団はあるが、文学運動はない〉状況がさらに極まってしまう。
そのような苦境の中でも、短歌結社が今後も最優先すべきものはなにか。
本稿で論じるのは短歌結社の過去でも現状でもない。常に持つべき理想像である。訴えるのは、理想像とそれに基づく組織の再点検である。
近代以降の短歌史は短歌結社の歴史そのものであっただろう。個別の結社やその作品を論じた文章、いくつかの結社の共通点や特徴、美質欠点を論じた記事には優れたものも多くある。とはいえ、実際に存在する短歌結社をいくら帰納的に解析しても、短歌結社の一般的本質は明らかにならず、現在までの在り様を追認する結論にしかならない。短歌結社が本来的・本質的にどのような集団・組織であるべきかを確認し、論ずる以外に、「『短歌結社のこれから』のために、いまなすべきこと」、ひいては、短歌結社が最優先し、最後まで守るべき事柄を導出する術はない。あるべき短歌結社の姿が現実化の困難な理想像であるとしても、理想像を思い描いていなければ、その方向へ向かうことすらできない 。
もちろん、短歌結社の様態において、理想を貫徹することは、現実的には極めて困難であろう。本文でも後に引用する岡井隆「短歌改革案ノート」にも「一つの文学理念のもとにあつまった文学集団といったようなことを言って、結社を規定しようとしたけれども、そして、文学理念ならはなはだ結構なことだけれども、結社の成立事情を忘れた観念的な規定だとしかおもえない。現実の結社は、主宰者への選歌制を通じての師事を、はじめから容認したもののあつまりであって、文学理念なんてものに主体的に賛成したもの同志の、たがいの作品の自主性を尊重しあった結合ではさらさらないのである。(「短歌研究」一九五七年十月号、P.51)」とあることは筆者も理解している。しかし、短歌結社の本質的理念・定義を本稿で規定・更新することは、現実の短歌結社を検討・確認・改善する上でも有意義であると思料する。
本稿では、大野道夫『短歌の社会学』に対する批判的検討を経て、短歌結社という組織形態の再定義を図り、組織としての理念や目的が不可欠であることを示す。次に、アメリカの英文学者であるスタンリー・フィッシュの「解釈共同体」及び「解釈戦略」という概念を援用し、解釈戦略、すなわち短歌の読解・制作に要する文学的理念こそが短歌結社を形成することを論ずる。最後に、短歌結社各々が自らの解釈戦略を再確認し、解釈戦略に応じた共有方法・組織形態(場合によっては文学的理念、解釈戦略そのもの)の確認・再検討が、喫緊の責務であることを主張する。
2.短歌結社とはなにか
(1)結社とはなにか
「結社」という語が、最も頻繁かつ主要な意味で使用される事例は日本国憲法のそれだろう。憲法の第二十一条に「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と規定されている。ここでいう「結社」について、憲法学者・佐藤幸治は『日本国憲法論』(成文堂、二〇一一)で「特定の多数人が、任意に特定の共通目的のために継続的な結合をなし、組織された意思形成に服する団体」(P.292)と説明している。
文化人類学者の綾部恒雄は、人が集団を形成する要因を「血縁」、村落のように同じ土地で暮らす者同士が持つ「地縁」、一定の約束や目的を共有する「約縁」という三つの区分を適用*4 し、結社を約縁によって形成される集団の一種と見なす。その上で、結社を
なんらかの共通の目的・関心を満たすために、一定の約束のもとに、基本的には平等な資格で、自発的に加入した成員によって運営される、生計を目的としない私的な集団
と定義している 。
佐藤と綾部の解釈・定義に共通して、成員間の「共通(の)目的」を掲げている点を特に指摘しておきたい。憲法という制度上も、文化人類学における分析上も、結社に「共通の目的」が見出される。「共通の目的」は結社の仕組み上、不可欠なものである。
本稿では、短歌結社を含む結社という組織一般について、綾部の定義を用いる。
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(2)短歌結社についての先行研究 ――大野道夫『短歌の社会学』
戦後の短歌総合誌を見渡してみると、個々人が所属する短歌結社について語るエッセイや、単発での評論・時評などは見られるものの、その定義や性質に関する記事は決して多くない*5。結社を中心的主題に挙げた特集や対談も散発的である。短歌結社に関する評論を収録した書籍はいくつかあるが、包括的な調査を試みた書籍は、大野道夫『短歌の社会学』(はる書房、一九九九)のみと言ってよいだろう。
『短歌の社会学』における、短歌結社の定義は明快とは言い難い。大野の議論を乱暴にまとめると、
①(短歌に限らない)一般的な結社の定義は、綾部のいう「結社」と概ね同じであり、短歌結社もその一種である。
②短歌結社は、家元制度や師弟関係のような上下関係・ヒエラルキーを含んでいる
という二点に集約される。
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(3)短歌結社を他の集団・組織と区別する要素
綾部の結社一般の定義が短歌結社にも当てはまるとすると、当然のことながら、短歌結社はその結成目的が短歌に関わる組織である、といえる。ただ、「短歌に関わる」というだけでは、現代歌人協会のような、歌人の社会的地位や専門性の向上等を目的とする職能団体と短歌結社との区別がつかない。よって、その主たる「共通の目的」は、職能団体が共有する社会的な目的よりも、より内面化された「文学的目的・関心」にあると推定しうる。
他方、単に「短歌に関する、共通の、文学的目的・関心を満たす」だけであれば、同一の文学的目的・関心を持って同人誌を刊行するグループと短歌結社との区別がつかない*6。また、歌会・研究会・大会の開催や雑誌の発行といった外形的な運営手続きのみを比べても、同人組織や超結社の集団といった、他の組織形態との区別がつかない 。よって、「短歌に関する、共通の、文学的目的・関心」自体において、短歌結社固有の特徴があると推定しうる。
これらの推定に基づき、綾部の定義を短歌結社に適用すると、短歌結社を、暫定的に以下のように定義できる。
短歌に関する、共通の、かつ短歌結社に固有の特徴をもつ、文学的目的・関心を満たすために、一定の約束のもとに、基本的には平等な資格で、自発的に加入した成員によって運営される、生計を目的としない、私的な集団
本稿は以降、「短歌に関する、共通の、かつ短歌結社に固有の特徴をもつ、文学的目的・関心」を明らかにすることで、短歌結社の成立要件を論じることとなる。
(4)機能的階統制(ヒエラルキー)とはなにか
「短歌結社の成立要件」を検討するにあたり、(2)で触れた大野の整理を一度接続してみよう。すると、「ヒエラルキーが短歌結社の成立要件であるか」、すなわち「〈短歌に関する、共通の、かつ短歌結社に固有の、文学的目的・関心を満たすために、ヒエラルキーを内包する集団〉のみを短歌結社と呼ぶのか、〈ヒエラルキーがなくとも、短歌に関する文学的目的・関心を満たす集団〉を短歌結社と呼びうるのか」という命題を検証する必要が生じる。
そこで、大野が『短歌の社会学』で引用している村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎『文明としてのイエ社会』(中央公論新社、一九七九)に立ち返ってみよう。村上らは同書において、日本の歴史が、約縁的なイエ(家)社会と、血縁的なウジ(氏)社会の循環によって成り立っていると説明する*7。このイエ社会の構成要素となるのが、農耕と軍事の両方を目的として集まった人々を原型とした「イエ型集団」であり、その特性の一つが「機能的階統制(ヒエラルキー)」である。「機能的階統制」をやさしく言い換えれば*8、「(農耕や軍事といった)組織全体の目的を達成するために、組織内に上下関係と役割分担を設け、個々人がなにをすべきか相互に調整をはかる仕組み」というところだろう。
短歌結社について大野の整理を適用できるものと一旦仮定し、実際の短歌結社に見られる師弟関係、選歌や歌会等を通じた指導体制を、短歌結社における機能的階統制・ヒエラルキーの一種とみなす*9。また、短歌結社における「機能的階統制」と「ヒエラルキー」を同じ意味で用いる。
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(4)補註
話題がややずれるが、本稿の議論と位置づけに関わる重要な指摘を行っておきたい。『短歌の社会学』において大野は短歌結社をイエ型集団の一種である、と暗黙裡に断定して、ときに論理を過度に飛躍させて議論を進めている点である。
大野は、「歌壇」一九九四年十二月号に掲載された「新鋭評論 結社論と結社の展開」以降、『短歌の社会学』や、「ゆるやかになりつつ存続を(結社誌の歴史と現在、役割とは)」(「短歌」二〇一三年十月号掲載)において、いずれも結社の定義として『社会学小辞典』(大野は刊行年を「一九七七年」と記している)の「アソシエーション」の項を引き、
社会学において「結社」とはアソシエーション(association)の訳語であり、「特定の類似した関心や目的をもつ人びとが、それらを達成するために意識的に結合し形成する自由な人為的集団」と定義されている(『短歌の社会学』P.112)
社会学で結社(association)は「特定の類似した関心や目的をもつ人びとが、それらを達成するために意識的に結合し形成する自由な人為的集団」(『社会学小辞典』)と定義される。(「短歌」二〇一三年十月号P.106「ゆるやかになりつつ存続を」)
と紹介し、その後に『文明としてのイエ社会』の系譜性や機能的階統制についての説明を続けている。
『文明としてのイエ社会』中の「系譜性」の節の第一行目(P.230)に「イエ型集団は永遠の持続性をめざす点で、たとえば欧米型の結社体(アソシエーション)と異なっている」(傍線中島)と明記されている。これは大野が、欧米型の結社を日本的なイエ型集団とみなす整理と真っ向から矛盾する。すなわち、大野は(この「異なっている」と明記された文章をおそらく読んでいるにもかかわらず)「異なっている」と明記された概念を、断りなく接続しているのである。このような論立ては社会学研究としても短歌評論としても極めて不誠実ではないか。
もし大野が、短歌結社をイエ型集団だと見なすならば、「アソシエーション(association)の訳語」、つまりヨーロッパ型の結社と同一であるかのように評論冒頭で示すのは、多大な誤解を招く。逆に、もし短歌結社が社会学上の「結社」すなわちヨーロッパの結社と同種であるとするならば、イエ型集団を日本の組織の特徴として説明なく挙げるのは問題がある(なお、イエ型集団は日本固有のものではなく、世界全体に共通した様式である、とする見方もありうる(東浩紀「観光客の哲学」(『ゲンロン0』、ゲンロン、二〇一七収録)第五章註10など)。ただし、大野がこの見解をとるとしても、それを短歌結社に適用してよいか否かは論理的検証を要することに変わりはない)。
その点で、この大野の結社論や、それを無検討に引用・援用した評論は、その論理的正当性が覆されると言わざるを得ない。大野の結社論に対する詳細な議論・批判は稿を改めて行うが、本稿は大野の議論の荒さを補完し、乗り越える意味を持つ。
(5)短歌結社はヒエラルキーを必然的に内包するか
「ヒエラルキーが短歌結社の成立要件であるか」という問いは、「短歌結社はヒエラルキーを必然的に(・・・・)内包するものであるか」「短歌結社を他の組織形態と区別するものはヒエラルキーであるか」と言い換えられる。結論から述べると、否である。短歌結社がその結成当初の段階から必然的にヒエラルキーを内包するとは限らない。
代表的な近代的短歌結社として東京新詩社があるが、その内規である「新詩社清規」には「新詩社には社友の交情ありて師弟の関係なし」と明記されており(「明星」第六号、東京新詩社、一九〇〇、P.68)、東京新詩社が師弟の関係=ヒエラルキーを排した共和的な結社を目指していたことが分かる。我々後世の者から見て、東京新詩社において与謝野鉄幹がいかに指導的役割を果たし、結果的に「師弟の関係」と同種の体制を新詩社に導入していたとしても(※補註)、それは〈その結成当初の段階から〉〈必然的に〉ヒエラルキーを内包していたことを意味しない。他の、現代の短歌結社においても同様である。
また、〈教える―学ぶ〉という関係にヒエラルキーを看取するならば、カルチャースクールと結社との区別も付かなくなってしまう*10。ヒエラルキーそれ自体は、短歌結社を他の組織形態と区別する概念ではない。ならば、短歌結社においてヒエラルキーとはなにか――この点を、以降の論で明らかにする。
(5)補註
木俣修「新詩社騒動の顛末」(『近代短歌の諸問題』(新典書房、一九五六)所収)など、新詩社における鉄幹の振る舞い、すなわち鉄幹が「師弟の関係なし」とは実態上は考えていなかったように振舞っていたとうかがえる記事や書籍がある。この、新詩社清規の有名な一節も(結果的には)ただの建前であった可能性は否定できない。
新詩社規則によって、鉄幹が東京新詩社の「社長」ではなく「社幹」となることを、成員が「懇請」したことで「独裁的地位をさけ」(塩田良平「文学運動と結社」、「國文學:解釈と教材の研究」一九六四年三月号所収、P.11)てもいる。これも建前や、鉄幹が弟子を巧みに誘導した結果だった可能性は残る。
しかし、本稿では、仮に建前であったとしても、清規に「師弟の関係なし」と記された事実を評価したい。個々の短歌結社が設立される際に掲げた理念の実現には、その理念の護持と、実現に向けた不断の努力がなければ、実現され得ない。短歌結社そのものの本質的目的(結論を先取りすれば「解釈戦略の共有」)を個々の短歌結社の設立理念に優先させるならば、本質的目的の達成のためにヒエラルキー=師弟関係を用いることも当然発生してくる。その結果に、事実を事実として捉えた上で(すなわち、新詩社清規のように明確化された内部規定を、解釈によって歪めることなく)理念そのものを見直す必要も生じてくるだろう。
ヒエラルキーを導入した短歌結社においても、そうでない結社においても、その設立時における理念とヒエラルキーの滲透度の間には、短歌結社の活動を続けてゆく中で、ズレが生じてくる。このズレをどの程度許容し、あるいは解消するのかが問題なのである。というのも、組織が拡大すると、その組織理念が共有できていなくとも維持可能な体制を目指す必要が出てくる。維持可能な体制が実現できれば、当然のことながら、組織内にその理念を共有する者の割合は下がる。短歌結社においても、会員が増えることで組織理念――文学理論や文学的理念、解釈戦略を共有する者の割合は下がるだろう。
短歌結社が文学的理念=解釈戦略の共有に向けて活動する組織であるならば、既に共有できている者とまだ共有できていない者の双方がいても何らおかしなことではない。組織目的として、文学的理念=解釈戦略の共有が掲げられ、その達成に向けて活動していることこそが肝要である。
3.解釈共同体としての短歌結社
(1)「このクラスにテクストはありますか」
a. 字句の解釈
アメリカにあるジョンズ・ホプキンズ大学で文学を教えていたスタンリー・フィッシュは、その著作の中で次のような同僚の経験を紹介する。
新しい学期が始まった初日に、ある学生が同僚のもとを訪れ、「このクラスにテクストはありますか There is a text in this class?」と訊ねた。同僚は学生から「自らの授業でテキスト=教科書*11が必要とされるのかどうか」を問われたものと解釈して回答するが、学生はその同僚に「授業では(フィッシュの文学理論の影響を受けて)テクスト=文章の実在を信じるのか、読者だけを信じるのか(つまり「文学理論において、文章の意味を確定するものは文章か、読者か」)」と問い直したという。
このエピソードからフィッシュは以下のように論ずる――「テクストはありますか」という単純な質問を、教科書の有無に対する質問として解釈するか、文学理論に対する関心に基づく質問として解釈するかは、教員と学生の個人的な資質や能力の問題ではない。学生も同僚もアメリカの学問的制度(アメリカの大学に所属し、テクストの実在について議論する文学の講座が存在する状況)の中に生きているから、どちらの解釈も可能になったのであって、いずれの解釈もアメリカの学問的制度のような共同体や慣習によって誘導されるのである――と。
この事例での「アメリカの学問的制度」のような、文章の意味を決定する共同体のことを「解釈共同体」という。「text」という語に「教科書」や「文学理論上の『テクスト』」という意味を与え、文章の意味を決定する慣習や仕組みのことを「解釈戦略」という。
b. ジャンルの解釈
さらにフィッシュは、別のエピソードを披露する。
フィッシュは「ジェイコブズ――ローゼンボーム」といった具合に、言語学者や文学評論家六名の名前を黒板に書いて宗教詩を学ぶ学生に見せて解釈を促したところ、学生たちはその六つの人名をキリスト教に関する宗教詩として(ジェイコブズは「ヤコブの梯子」を、ローゼンボームは「薔薇の木」を意味するものとして)解釈しはじめたという。
人は、眼前にある字句が詩的であるから、それを「詩である」と受け止め、解釈するのではない。眼前にあるのがただの人名であったとしても、それを「詩である」と思う枠組みにいる者は人名の羅列ですら詩として受け止め、解釈するのである。このことからフィッシュは、「解釈共同体や解釈戦略が文章の字句の意味だけでなく、眼前の字句に対する解釈の仕方をも決定している」と説く。
短歌にあてはめて考えてみよう。歌人は破調を含む短歌や自由律短歌を、短歌だと受け止められる一方、短歌と俳句の区別も付かない人にとってはそう思えない。また、例えば眼前に「かなし」や「あたらし」という字句があったとしても、文脈に応じて、現代語における「かなしい」「あたらしい」とは異なる意味を持ちうることを歌人は看取できる。
そのような理解や意味を決定する仕組み・枠組みが解釈戦略であり、その解釈戦略を共有する人々のまとまりを解釈共同体という*12。
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(2)読むための解釈戦略=書くための解釈戦略
この解釈戦略は、単純に字句を解釈する=読むためだけでなく、新たなテクストを書く――短歌であれば新しい一首を作る(詠む)ためにも必要となる。
解釈共同体は解釈戦略を共有する人々から成っている。テクストを読む(在来の意味で)ための戦略でなく、テクストを書くための、つまり、テクストの特性を構成しテクストに意図を付与するための戦略を共有する人々から成っている。(フィッシュ『このクラスにテクストはありますか』、小林昌夫訳、みすず書房、一九九二、P.186)
つまり、ある解釈共同体に属する人がなんらかの意図をもって新たなテクストを書く際、読者にその意図を――短歌であればその一首の意味はもちろん、その歌に含まれる技巧、本歌取りであれば元歌なども――理解されることを期待して書くだろう。作者は、読者も作者と同じ解釈共同体にいて、同じ解釈戦略に沿って読むことを前提として(※補註)*13書く。
(2)補註
同一の解釈共同体の内部にいる者同士――たとえば、歌壇内の歌人同士や、同一結社に所属する歌人同士――であっても、解釈の相違や、作者の意図通り読まれないケースは当然ありうる。作者や読者のミスはもちろん、フィッシュの挙げた「このクラスにはテクストはありますか?」のエピソードのように、解釈戦略の適用順位が異なるために、複数の解釈が生じる場合もある。フィッシュは以下のように論じている。
こう(中島補註:「字句が多様性な解釈を許容する」と考える場合も、「字句は一つの意味に限定される」と考える場合も、それは各人の持つ解釈戦略がそのように感じさせているに過ぎない、と)考えると、異なる読者たちのあいだに解釈の安定性のあることが説明されるし(彼らは同一共同体に属するのだ)、ひとりの読者が異なる解釈戦略を用いて異なるテクストを生むときに規則性が存在することが説明される(彼は異なる共同体に属するのである)。それはまた、なぜ見解の相違が存在し、なぜ秩序だったしかたで論争することができるのかを説明する。テクストに安定性があるからではなく、解釈共同体の組成に安定性があり、共同体内部にできる立場の対立にも安定性があるからである。(P.187)
(3)短歌結社と解釈共同体に関する仮説
これらは、あくまで作者と読者との間の、理想的なモデルを示したものであるが、短歌や短歌結社について考える足掛かりともなる。
短歌という文学においても、人々は――たとえば「写生」や「前衛短歌」といった――解釈戦略を通じて歌を読み、それに則して歌を作っている。短歌の読み方・書き方を、人は歌集や歌書を読んで自ら学び取るだけでなく、歌会や勉強会、講座やオンラインなどで、短歌を友人や仲間とともに学び、共有している。そのような解釈戦略を共有する人々のまとまりとして、何らかの解釈共同体が明に暗に存在することを推定しうる。
そこで、短歌結社を「短歌に関する解釈戦略を共有するために、人為的に設けられた解釈共同体である」と考えてみよう。すると、2(3)で記した短歌結社の仮の定義のうち「短歌に関する、共通の、かつ短歌結社に固有の、文学的目的・関心」は解釈戦略そのものに対応する。つまり、短歌結社の文学的目的・関心とは「会員が解釈戦略に沿って、短歌やそれに関する文章を書き、読むことができるようになること」であるとわかる。
(4)読むための短歌結社=書くための短歌結社
前項まで示した説と同様の見解を、永田和宏は評論「結社のこと、読みのこと」や「なぜ結社が必要とされ生き残るのか」で示している。
結社という場は、決して歌の作り方を教えるところではなく、歌の読みの多様性を教える場、それを実際に体験する場であり、それがひいては作歌に資することになる。そのために、歌会と選歌という二つのもっとも大切な要素があるなどと書いてきた。(「なぜ結社が必要とされ生き残るのか」、『短歌』(角川)二〇〇〇年五月号、P.190、傍線・中島)
大辻隆弘もまた、「短歌」(角川)二〇一四年四月号における評論「大衆性の誘惑」で同様の見解を示している。
一九七〇年代までの短歌界には、結社という「読みの共同体」が曲がりなりにも存在していた。自然の微細な移ろいや、自分でも自覚できないようなかすかな心の動きを「てにをは」を駆使して描出する。そのような微細な短歌表現の妙味を理解するためには訓練と熟達が必要である。結社という共同体は、過去の短歌作品の技法を伝承し、そのなかで研ぎ澄まされてきた「味わい方」を伝えることによって、高度な作品受容力を伝承してきた。 歌人は、その共同体の高度な読みを信頼し、その読みを想定することによって、自らの作品の表現を洗練させてゆくことができた。(P.104、傍線・中島)
ここで大辻がいう、短歌結社の持つ「読みの共同体」としての側面が〈解釈共同体〉と、「味わい方」が〈解釈戦略〉と同じであるとみなしてよいだろう。大辻は、短歌結社が共有せしめる解釈戦略のうち、読者の読解を助ける側面を「過去の短歌作品の技法を伝承し、そのなかで研ぎ澄まされてきた『味わい方』」、あるいは「高度な作品受容力」「微細な短歌表現の妙味を理解」と表現している。短歌結社が作者の制作・執筆を助ける側面については「その共同体の高度な読みを信頼し、その読みを想定することによって、自らの作品の表現を洗練させてゆくこと」「自然の微細な移ろいや、自分でも自覚できないようなかすかな心の動きを『てにをは』を駆使して描出する」と記している。
永田や大辻の記述のいずれも、3(2)で示した、フィッシュの提唱する解釈戦略の両面の議論と、見事なまでに一致している。この点からも、永田や大辻は(フィッシュの言説を直接参照・意図していないとしても)短歌結社を解釈共同体の一種と見なしており、解釈戦略の持つ「読み」と「書き」の両面を看破していると見てよいだろう*14。
(5)短歌結社の現在的・本質的定義
ここまでの議論を総合すると、短歌結社の定義を以下のように改めることができる。
各短歌結社が持つ、短歌の読み書きに必要な解釈戦略を共有するために、一定の約束のもとに、基本的には平等な資格で、自発的に加入した成員によって運営される、生計を目的としない私的な集団
最後に、解釈共同体としての短歌結社における、ヒエラルキーとはなんなのか、その必然性があるとすれば何かを検討する。
4.解釈共同体としての短歌結社のこれからのために、いまなすべきこと
(1)解釈戦略の共有とその手段
短歌結社は「各短歌結社が持つ、短歌の読み書きに必要な解釈戦略を共有する」ことを目的とする。その共有の一般的な方法・手段として、実際には、選者による選歌や結社誌の刊行、歌会・勉強会・研究会・大会等の開催などが行われている。それらの活動は、あくまで、解釈戦略を共有するための手段であって、目的そのものではない(※補註)。
(1)補註
これは、短歌結社の会員にとって、解釈戦略の共有が最優先の目的や動機となるべきことを意味しない。例えば会員個人にとっては「仲間がいると楽しい」「結社誌に歌が載ると嬉しい」と感じるような、解釈戦略の共有とは一見無関係な――しかし、ときに解釈戦略に強い影響を及ぼしうる感情が、短歌結社入会の強い誘因となる場合も当然あろう。他方、それらの動機は同人組織やカルチャースクールなど別の組織でも成立しうる以上、短歌結社の定義に影響を及ぼすものではない。
営利企業でも同様である。営利企業の目的が企業自体の利益であり、会社員の就業目的が(企業にとっては、利益と相反する、人件費という費用であるところの)給与であることは矛盾しない。同様に、短歌結社の目的と、会員の目的が合致しなければならない道理はない。各々の会社員が、企業の利益を目的としたり、あるいは給与のみを目的としたり、自己実現やキャリア形成、気のあう同僚と過ごす時間を最優先としていても、企業としては利益があげられればよい。
また、解釈戦略の共有を目的とする短歌関連の組織は、実際において短歌結社を名乗っていなくとも短歌結社の一形態とみなしうる。この点が本稿冒頭に「無数にある短歌結社を解析しても、あるいはいくつかの結社の特徴や美質欠点を論じても、短歌結社の本質は明らかにならず、これまでと現在の有り様を追認する結論にしかならない」と記した理由である。
なお、注意を促したいのは、個々の短歌結社の解釈戦略を排他的なものとして捉える必要はない、ということだ。ある短歌結社Aはその解釈戦略αに沿って会員の作家性を高めることを目指し、別の短歌結社は「仲間がいると楽しい」「結社誌に歌が載ると嬉しい」と感じるような会員に対して、Aの文学的理念をより平易にした解釈戦略α’を共有する場合もあるだろう。また、ある短歌結社Bは独自の解釈戦略βに沿って短歌の読解を行うが、このBはAと一部重なる場合もあろう。ある特定の結社に属する歌人が、他結社の歌人の短歌を読める場合も読めない場合もあるのは、それらに重なり合う部分と重ならない部分があるからだ(フィッシュのエピソードから、具体的に考えてみよう。フィッシュの同僚も学生も、「アメリカの学問的制度」という解釈共同体に属してはいる。それと同時に、同僚は同僚自身や教え子と形成する解釈共同体に属し、学生はフィッシュの形成した解釈共同体に属してもいるのだ)。
「同人組織もまた解釈戦略を共有している」と見なす向きもあるだろう。この見解に対しては、「解釈戦略に沿って、短歌やそれに関する文章を書き、読むことができるようになる」という変化、すなわち教育的システムの有無に重点を置いて考えるべきだろう。つまり、予め似通った解釈戦略を持った者が志を同じくして集まった同人組織と、解釈戦略を教育的に共有する者とその共有を受けようとする者が混在する短歌結社との区分が便宜的に可能である(つまり「解釈戦略を共有することを目的とする同人組織は、その実態において短歌結社の一種と見なされるべきである」)と思料する。
すなわち、菱川善夫が「同人誌本質論」で論じたように、同人誌の本質が結社誌の本質を内包するのだが、それは雑誌という媒体が、短歌結社であれ同人組織であれ、その集団にとってあくまで目的達成のための手段であるからに過ぎない。どのような目的に則して発行されているのかによって、同人誌の本質、結社誌の本質は変容してしまうのである。
過去の結社論においても、結社の本質を結社誌にあるとするものが数多く見られる。これは結社誌が解釈戦略の共有手段として極めて有効である(情報伝達効率がよい)からだと考えられる。結社誌について本稿本文では論じるための十分な余白がなかった。いずれ稿を改めて論じたい。
(2)短歌結社におけるヒエラルキーの意味
実際の短歌結社がその目的達成のために行う活動においては、師弟関係・指導体制が導入されている。というのも、短歌結社の解釈戦略をはじめ、何かを教え、伝える際には「何らかに習熟した者が、そうでない者に対して、説明する仕方――すなわち〈教える―学ぶ〉関係のようなヒエラルキー的な仕方が有効である」という考え方が一般的だからである。短歌結社の活動の多くも、このような考え方をもとに設計されていることだろう*15。
ならば、「短歌結社がその目的を達成するにあたって、ヒエラルキーが実質的に必須要件になっているのではないか」という疑念も再燃するかもしれない――が、筆者は「ヒエラルキーが実質的に必須」だとは考えていない(※補註)。すでに見てきたように、ヒエラルキーは短歌結社の定義に関係しない。ヒエラルキーがなければ解釈戦略を共有しあえないのであれば、ヒエラルキーのある短歌結社に入っていない歌人は、何も学び得ないことになってしまう。短歌結社のなかにいる対等な仲間同士では学び合うこともできず、短歌結社から師を乗り越えてゆく優れた弟子が生まれることもないはずだ。現実には、ヒエラルキーがなくとも人は学びうる。短歌結社は必然的にヒエラルキーを内包するものではない。ヒエラルキーはあくまで、目的達成のための手段の一つである。
ヒエラルキーを肯定し、組織に内包する短歌結社は、短歌結社の組織形態の一つである。ヒエラルキーを内包する仕組みづくり、師弟関係や選歌制の導入もまた、解釈戦略を共有する手段の一つであろう。現在に至るまでの教育的な、解釈戦略の伝達効果に鑑みれば、ヒエラルキーは全否定されるべきものではない。短歌結社によっては「解釈戦略の共有にあたっては、師弟関係が他の関係よりも有効だ」と判断し、強固な選者制・主宰制を敷いてもよい。ただし、岡井隆が六十年以上前に示した懸念が実現しないよう努力することが必要となる*16――「固定し、制度化した発表様式は、力作、あるいは野心作の顕現の場を失わせ、自由な批評の風潮を涸らす結果になる。一方において、この整然たるヒエラルキイは、保守派、ナマケ者にとって居ごこちのいい制度的な安定感を与える」(「短歌研究」一九五七年十月号、P.48)。
翻って、ヒエラルキーによらない解釈戦略の共有を目指す短歌結社があってもよい。もちろん、「ヒエラルキーによらない解釈戦略の共有」という手法がもつ可能性や有効性は未知数である。とはいえ、新詩社のように「師弟の関係なし」と明言する短歌結社であるならば、こちらの試みを実践すべきなのではなかろうか。ただし、現実的にはヒエラルキーを排すること自体に多大な困難を伴うだろう。さらに、先例のない仕組みづくりの果てに、優れた歌人が輩出されるかは未知数である*17。
短歌結社においては、ヒエラルキーの有無にかかわらず、社会的に適切な手段で、「解釈戦略の共有」という目的が達成されうるか否かが肝要である。そして、ヒエラルキーの導入要否を含めた組織形態は、目的達成に向けた有効性に基づいて検討されるべきである。
現今の短歌結社もまた、その解釈戦略・文学的理念に則して、短歌結社自身の解釈戦略の共有方法と組織運営を見直されるべきではないか。
(2)補註
その反証として、「人と知恵や知識を共有する場合、ヒエラルキーは不要である」とする思想を紹介しておきたい。
フランスの現代哲学者ランシエールは著作『無知な教師』の冒頭で、十九世紀の教育者・ジャコトの知的冒険を紹介している。ジャコトは母国フランスの王政復古により亡命を余儀なくされる。彼は亡命先のオランダで学生たちにフランス語を教えることになるのだが、ジャコトはオランダ語がわからない。そこで、実験的に、フランスの小説の、仏蘭対訳本を学生に暗記・復唱させることにした。ある程度まで学習が進んだ後にジャコトは、小説の内容について自分で物語れるよう読むだけでよい、とまで学生たちに指示した。そしてあるときジャコトは、学生たちに小説についてフランス語で作文させてみたところ、学生たちは文法の誤りもなく、フランス人顔負けのフランス語で文章が書けたのだという。
フランス語を教え始めた当初のジャコトを含め、多くの教師はこう考える――「教師が持つ知識や理屈を、持っていない学生たちに伝え、学生たちの教養の度合いを高めていくことが仕事である」「知識や理屈をよりわかりやすく説明してやらなければならない」「優れた者が劣った者を導かねばならない」と。ところが、このジャコトの実験は、教師が学生たちに(ジャコトの場合はオランダ語でフランス語を)わかりやすく説明しなくとも、学生たちが学び取ることができうる可能性を示している。そうであるならば、「優れた者が劣った者を導かねばならない」というヒエラルキーの元で、教師が学生に説明する必要もない。そのような教師の説明は、むしろヒエラルキーに基づく個々人間の不平等を固定化し、さらに強めてしまうことになる。ジャコトは、ヒエラルキーの固定化を招く教育から人々を解放しうる、説明し教え導く教師のいない学びを「普遍的教育」と呼び、ランシエールはその普遍的教育に、民主主義の出発点としての〈知性の平等〉を見出すのである。
- 作者: ジャック・ランシエール,梶田 裕,堀 容子
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2011/07/28
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「教える―学ぶ」という関係を、権力関係と混同してはならない。実際、われわれが命令するためには、そのことが教えられていなければならない。われわれは赤ん坊に対して支配者であるよりも、その奴隷である。つまり、「教える」立場は、ふつうそう考えられているのとは逆に、けっして優位にあるのではない。むしろ、それは逆に、「学ぶ」側の合意を必要とし、その恣意に従属せざるをえない弱い立場だというべきである。(P.8-9)
当然のことながら、本稿本文で「〈教える―学ぶ〉という関係にヒエラルキーを看取するならば」と記したのは、ランシエールや柄谷の議論への接続を意識したものである。
また、短歌結社や会員相互間の解釈戦略の扱いについて、本稿を通じて「共有」「教育的」と書き、本註以外で「教育」と記していないのは、「教育」に含まれるヒエラルキー的な意味合いを避けるためである。*18
- 作者: 柄谷行人
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1992/03/05
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(3)おわりに
短歌結社における解釈戦略の内実を具体的に考えてみると、文法や語彙のような基礎的な事項のほか、短歌に関わる基礎的教養――たとえば、歌語や、本歌取りの対象となる名歌をはじめとした古典のように、どの短歌結社にも共通する要素が一定程度含まれる。他方で、作歌技法や韻律観、古典に対する解釈・位置づけなどといった、各短歌結社に異なる特徴をもちうる要素も解釈戦略には含まれる*19。前者があるからこそ結社を超えた共通理解が可能なのであり、後者があるからこそ結社ごとの作風が生じてくる。各短歌結社が有する解釈戦略の総体が、各短歌結社の掲げる「文学的理念」そのものであると言い得よう*20。さらに、短歌結社に所属している会員が、解釈戦略を共有しながらも、その解釈戦略を軽んじることなく、かつ解釈戦略の更新を恐れないことも重要である。
短歌結社の入会を検討する者にとっても、在籍し続ける者にとっても、各短歌結社がどのような文学的理念=解釈戦略を持っているのかは重要事項である。現在の短歌結社において、文学的理念・解釈戦略は適切に設定され、開示されているだろうか。文学的理念・解釈戦略にそった、共有手法が設定され、組織運営がなされているだろうか(※補註1)。必要に応じて見直しが行われているだろうか(※補註2)。文学的理念・解釈戦略と組織運営の点検、必要に応じた見直しが「『短歌結社のこれから』のために、いまなすべきこと」である。短歌結社の規模がどれだけ縮小しようと、短歌結社全体がどのような苦境に陥ろうと、短歌結社は文学的理念・解釈戦略の共有という目的や本義を最後まで守り抜くべきであり、最も尊重するべきだ。目的こそが、短歌結社を短歌結社たらしめている。
本稿を通じて、短歌結社の定義の更新を図り、短歌結社の本質的目的が解釈戦略の共有にあることを確認した。現代に存する短歌結社が、短歌結社の新しい定義と、自社の文学的理念に則して、解釈戦略の共有手法や組織運営を見直す一助となれば幸いである。(了)
(3)補註1
「非営利組織としての短歌結社」の詳細については稿を改めるが、短歌結社を非営利組織の一種と見なすことも当然可能だ。この視点により、非営利組織やその組織運営にまつわる様々な議論が一部なりとも短歌結社にも援用可能になり、より広い視座を獲得できることだろう。なお、この点は吉川宏志「2006年、結社とは何か」(「國文學 解釈と教材の研究」二〇〇六年八月号、P.124~)でも示唆されている。
ドラッカー『非営利組織の経営』(ダイヤモンド社、二〇〇七)によると、非営利組織は通常、ミッションと呼ばれる組織目的を掲げ、その実現に向けて組織の運営方法が検討される。本稿に沿っていえば、文学的理念・解釈戦略の共有という組織目的を掲げ、雑誌の発行や大会の開催などの事業活動をそれぞれの組織規模に応じて行うことになる。
ミッションや事業は適宜見直しが図られる。当然のことながら、結社の解釈戦略もその共有方法も、常に更新されねばならない。解釈共同体が共同体である以上、その成員が変われば共同体の有り様も徐々に変容するのは当然である。
なお、ドラッカーの説に基づくならば、短歌結社には営利組織以上に、模範的なリーダーシップ――ヒエラルキーが求められる。
リーダー、特に強力なリーダーとは模範となるべきものである。組織内の人たち、特に若い人たちがまねをするに値する人を選ぶ。(P.18)
非営利組織としての短歌結社を基盤に大きな潮流としての文学運動を興すには、模範となるべきリーダーが必要となる。短歌結社におけるリーダーの必要は、師弟関係・ヒエラルキーを肯定する側面となろう。ただし、どのような組織でもそうだが、模範となるべき理想的リーダーが常に結社を組織するわけでもなければ、結社の成員が模範となるべき理想的リーダーを常に適切に選出できるわけでもない。リーダーとなった者は常に模範的であるかのように人々が捉えてしまうのも陥りがちな錯誤だ。ヒエラルキーを導入する短歌結社は、こういった点にも留意する必要がある。*21
- 作者: P.F.ドラッカー
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2007/01/27
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(3)補註2
たとえば、近藤芳美は『〈短歌と人生〉語録』(砂子屋書房、2005)でも、未来短歌会が「プロの集団」であることを願っていた、と繰り返し語っているが(P.15、94-96など)、同時に
わたしもまた、今の「未来」についてそのようなことを無論思おうとはしていない。今の「未来」はその当時よりはるかに大きくなり、もっと広い、さまざまな思いを抱く多くの会員を擁しているからである。(P.94-95)
と、会全体が「プロの集団」であり続ける、という理想を現実的見地から断念してもいる。
未来短歌会という短歌結社が設立当初に、文学的理念に沿って「プロの集団」という目標を設定したことに間違いがあるわけではない。後に、「プロの集団」という目標を共有することを、現実的に断念したことも間違いではない。未来短歌会以外でも同様の見直しが行われていることだろう。理想と現実の間で、必要に応じて組織運営の見直しを図ることが肝要であると筆者は考えている。
- 作者: 近藤芳美
- 出版社/メーカー: 砂子屋書房
- 発売日: 2005/05
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別表
①1945年以降、②主要な短歌総合誌等に掲載された、③結社に関する題名が付されている、④主に複数名が参画する特集や対談、評論記事をまとめた。一部、前述条件に該当しない記事も加えてある。*22
特集や記事の表記は、基本的には国立国会図書館のデータベースに準じ、データベースにない記事等は中島が転記した。
なお、以下に該当するものを除く(調査しても、表には挙げていない)。
・個別の結社に関するエッセイ、(特集等でない)時評・評論
・個別の結社や結社誌を軸としたアンケート等調査のみの記事
(例:「短歌年鑑」の「結社アンケートによる今年度の収穫」)
・個別の結社や、結社誌の掲載作品・評論等を紹介するコーナーや連載
(例:「歌壇」の「結社 北から南から」、「短歌」(角川)の「現代結社で何が歌われどう書かれているか」「全国結社・歌誌展望」など)
「朝日新聞」
刊行年月 | 特集名または記事名 | 主な執筆者・参加者及び記事名 |
---|---|---|
1954年4月 | 「結社解散論」 | 江口榛一 |
「歌壇」(Z13-3452)
刊行年月 | 特集名または記事名 | 主な執筆者・参加者及び記事名 |
---|---|---|
1994年12月 | 新鋭評論 結社論と結社の展開 | 大野道夫 |
2006年9月 | 対談 一緒に話そう(10)佐佐木幸綱×永田和宏 結社の未来 | 佐佐木幸綱、永田和宏 |
2016年6月 | 結社の進路:結社の近未来を考える | 米川千嘉子、山田富士郎 |
「現代短歌 1974」(KH9-31)
刊行年月 | 特集名または記事名 | 主な執筆者・参加者及び記事名 |
---|---|---|
1974年 | アンケート特集 私にとっての集団 | 近藤芳美、高安国世、前田透、山本友一、葛原妙子 |
「現代短歌」(Z72-G63)
2014年7~8月 | 結社の力 | 篠弘、今井恵子、大辻隆弘、高野公彦、松村正直、黒瀬珂瀾「結社と若手の時間について」 |
「現代短歌雁」(Z71-R508)
刊行年月 | 特集名または記事名 | 主な執筆者・参加者及び記事名 |
---|---|---|
1989年1月 | 結社は悪か? | 永田和宏 |
1993年7月 | いま結社とは…… | 永田和宏、安森敏隆、鈴木竹志、田井安曇 |
「国文学 解釈と鑑賞」(Z13-333)
刊行年月 | 特集名または記事名 | 主な執筆者・参加者及び記事名 |
---|---|---|
1952年4月 | 最近結社瞥見 | 木村捨録 |
1964年2月 | 岡井隆「結社の意味と歌壇ジャーナリズム」、篠弘「現代歌壇の結社」 | |
1971年4月 | 特集 近代短歌・結社と方法 | 木俣修「近代短歌・結社と方法」、国東望久太郎「新詩社系と根岸短歌会系」、篠弘、斎藤正二「結社外の歌人群」、中野嘉一、安田章生「短歌結社の宿命――結社の動向と歌壇の総合誌」、前田透、菱川善夫他 |
「国文学 解釈と教材の研究」(Z13-334)
刊行年月 | 特集名または記事名 | 主な執筆者・参加者及び記事名 |
---|---|---|
1964年2月 | 特集・近代文学と結社・流派 | 塩田良平「文学運動と結社」、篠弘「近代短歌前期の結社――明治四十年代から昭和初期まで」 |
1990年9月 | 短歌の歴史 11 革新結社の群立(10~22まで全て本林が執筆。近現代短歌史を概観したもの) | 本林勝夫 |
1994年11月 | 歌壇・結社をめぐって | 島原泰雄 |
2006年8月 | 2006年、結社とは何か | 吉川宏志 |
「journal律」(Z79-B188)
刊行年月 | 特集名または記事名 | 主な執筆者・参加者及び記事名 |
---|---|---|
1964年12月 | 結社この一年 | 島田修二 |
1965年6月 | 同人誌本質論 | 菱川善夫 |
「短歌」(角川)(Z13-655)
刊行年月 | 特集名または記事名 | 主な執筆者・参加者及び記事名 |
---|---|---|
1954年8月 | 討論會 結社解散論をめぐつて | 江口榛一、中河與一、福田榮一、中野菊夫 |
1958年9月 | 特集 戦後結社の綜合展望 | 阿部正路、岩田睛美、國見純生(3名の共同執筆)「戦後結社史」、近藤芳美、大野誠夫「対談 戦後結社の諸問題」 |
1961年5月 | 結社の壁 | 黒住嘉輝 |
1961年7月 | 結社について | 吉田弥寿夫 |
1961年12月(短歌年鑑) | 結社誌と同人誌 | 岩田正 |
1962年4月 | 結社はあたらしくなったか | 藤田武 |
1962年12月 | 結社誌・同人誌をめぐる底流 | 秋村功、篠弘、寺山修司、吉田漱他 |
1963年5月 | 戦後結社の功罪 〈石もて打て、罪なきものを〉 | 赤座憲久 |
1966年3月 | 毒の一滴のうちにこそ――結社内作品批評論 | 菱川善夫 |
1966年11月 | 特集・結社の諸相 | 片桐顕智「結社の発生――近代短歌史における」、前田透、島田修二、上田三四二「二つの結社――『コスモス』『歩道』」、岡井隆「二つの結社――『創作』『国民文学』」、塚本邦雄、米満英男「結社誌対同人誌――その関係・現況・意味・希望」他 |
1996年1月 | 結社の問題点 文学たらしめるもの | 江畑實 |
2000年1月 | 結社のこと、読みのこと | 永田和宏 |
2000年5月 | 昭和短歌の再検討25 なぜ結社が必要とされ生き残るのか | 永田和宏 |
2013年9月 | 歌壇の歴史と現在:結社、同人、ネット、そして「私」 | 島田修三、大野道夫 |
2015年12月 | 結社特集 師を持つということ | 坂井修一、江戸雪、黒瀬珂瀾「鼎談 不合理を楽しむ」、尾﨑朗子、染野太朗 |
「短歌往来」(Z13-3866)
刊行年月 | 特集名または記事名 | 主な執筆者・参加者及び記事名 |
---|---|---|
1989年9月 | 結社という共同体 | 彦坂美喜子 |
1990年1月 | 個性失った結社誌 | 大滝貞一 |
1990年3月 | 文学的達成と結社の経営 | 恩田英明 |
1996年3月 | [特集]結社を考える | 大野道夫 |
1997年1月 | 特集*新・現代短歌入門考(特集中の「入門の利点と弱点――結社」) | 田村広志「『結社』という場」、伊東悦子「居場所のある心地よさ」 |
「短歌研究」(Z13-658)
刊行年月 | 特集名または記事名 | 主な執筆者・参加者及び記事名 |
---|---|---|
1954年8月 | 短歌史に現れた結社心理 | 齊藤清衞 |
1957年7月 | 結社――その組織と人間(座談会) | 岡井隆、山本成雄、島田修二、野村隼一、岩田正、富小路禎子、玉城徹 |
1957年8月 | 結社惡について | 金子兜太 |
1957年10月 | 短歌改革案ノート | 岡井隆 |
1959年4~7月 | 「現代短歌結社の研究」(全4回) | |
1960年1月 | 歌壇は生きている 結社分裂症 | (編集部) |
1960年2月 | 中堅歌人の席――今日の中堅歌人を知るために、また今日の結社を知るために | 木村捨録 |
1961年7月 | 特集 短歌雑誌の現況 '77 | 宮柊二「伝統と結社」、佐藤佐太郎「結社と流派」他 |
1971年9月 | 現代短歌結社の系譜と主張(綴込付録) | 久松潜一「短歌結社の沿革」 |
1972年9月(綴込付録) | 現代短歌雑誌総覧〔昭和46年10月~47年7月現在発行のもの〕--短歌結社の性格と歌風の解明 | |
1977年4月 | 特集 短歌雑誌の現況 '77 | 中野菊夫「文学としての短歌にかかわる結社の問題」、田中順二「結社の一担当者の辯」 |
1978年4月 | 結社問題特集 | 高安国世「結社における文学活動と現代の短歌作品」、高瀬一誌、他 |
1979年4月 | 結社問題特集 結社誌・創刊とその後 | 篠弘「結社の企図と責任」、細川謙三「結社は動く――創刊とその後」、永田和宏「王国の秋――第2世代の課題」 |
1979年10月 | 結社問題を増幅するマスコミ | 池田純義 |
1981年5月 | ‘81短歌セミナー第5回 結社について――その歴史と機能―― | 前田透 |
1983年4月 | 三世代鼎談--短歌最前線-2-ふえつづける結社接近する主張〔含 資料〕 | |
1984年8月 | 3世代鼎談--短歌最前線-10-現代短歌の行方-3-歌人の姿勢・結社組織短歌界について | 大屋正吉、三国玲子、阿木津英 |
1993年6月 | 現代短歌討論シリーズー3-結社・歌人団体篇--結社とは?添削とは? | 阿木津英、松平盟子、佐藤きよみ |
2006年11月 | 作歌の指導方法を考える 結社で歌人はどう育つか | 佐伯裕子、大塚寅彦黒岩剛仁、阿木津英他 |
2012年8月 | 結社誌と戦争 | 来嶋靖生、春日いづみ、大野道夫 |
「短歌現代」(Z13-1848)
刊行年月 | 特集名または記事名 | 主な執筆者・参加者及び記事名 |
---|---|---|
1978年12月 | 今年度の総合誌 遊芸化と結社化の行方 | 篠弘 |
1980年7月 | わたしの結社問題 | 玉城徹 |
1981年7月 | (特集名未詳) | 冷水茂太「『結社』の発足――文学は一代限りの営為だが……」、千代国一「『結社』の継承――「国民文学」をたとえに……」 |
1983年4月 | 特集 転換期の結社 | 「結社の発生・結社の現在」、岡井隆、馬場あき子、玉城徹、武川忠一「座談会 結社の条件 文学理念の変革は可能か」、冷水茂太、市川哲夫、「主宰者の責任」、島田修二「結社と個」、坪内稔典、石本隆一、樋口覚 |
1992年9月 | 短歌結社の研究 | 新間進一、大屋正吉、加藤克巳 |
1996年6月、7月、9月 | 特集 「結社の主張と歌」Ⅰ~Ⅲ | Ⅰ 田中順二「結社有用私見」、石井登喜夫「ユナイテッド・グループ」、片山貞美Ⅱ 永田和宏「詩型の要請としての結社」、川合千鶴子 |
1998年6月 | 特集 結社について | 久保田正文、篠弘、阿木津英「結社組織の政治学的素描――その創作行為との関係」他 |
2007年1月 | 小議会 特集 私の結社論 | 菊澤研一、三浦槙子、小塩卓哉、大野道夫 |
「短歌雑誌」(Z911.105-Ta1)
刊行年月 | 特集名または記事名 | 主な執筆者・参加者及び記事名 |
---|---|---|
1950年7月 | 結社のもつ主張とその意義の有無 | 扇畑忠雄、岡野直七郎、太田青丘他 |
「短歌主潮」(Z911.105-Ta11)
刊行年月 | 特集名または記事名 | 主な執筆者・参加者及び記事名 |
---|---|---|
1948年9月 | 短歌理論の新次元 | 臼井吉見、窪川鶴次郎、小田切秀雄、木俣修、久保田正文 |
1948年11月 | 歌壇の現状を語る(座談会) | 大野誠夫、小暮政次、五島茂、渡邊順三、土岐善麿、木俣修、久保田正文 |
「別冊 国文学」(Z13-1971)
刊行年月 | 特集名または記事名 | 主な執筆者・参加者及び記事名 |
---|---|---|
1987年1月 | 結社と文学 |
*1:ブログの仕様に応じて、応募原稿では脚注とした部分を一部本文に戻した状態で記載する。
*2:本稿では文学運動の基盤としての短歌結社の本質を明らかにすることを主眼とする。文学運動の形成やその必要要素については稿を改める。
*3:二〇〇九年から二〇一四年までの調査はhttp://tankaful.net/24、一九八〇年と二〇一二年の比較はhttp://goranno-sponsor.com/diary/130218(いずれも二〇一八年五月二十三日閲覧)。
*4:この区分は綾部独自のものではなく、ドイツの社会学者・F.テンニースによるゲゼルシャフト・ゲマインシャフト論(地縁・血縁はゲマインシャフトの一例)や、アメリカの文化人類学者・F.L.シューが『比較文明社会論 ――クラン・カースト・クラブ・家元』(作田啓一、浜口恵俊・訳、培風館、一九七一)で整理した「縁約の原理」論が先行研究として存在している。 比較文明社会論―クラン・カスト・クラブ・家元 (1971年)
*5:別表参照
*6:明治期の短歌結社を射程に入れれば、十月会や車前草社など雑誌を刊行しない結社もあったことから、雑誌刊行が短歌結社の定義に関わらないともいえる。(篠弘「近代短歌前期の結社――明治四十年代から昭和初期まで」、「國文學:解釈と教材の研究」一九六四年三月号所収 等を参照)
*7:この点には重要な疑義が含まれる。(4)補註参照
*8:『文明としてのイエ社会』では、「階統制」という語については「集合目標の達成のために行われる集団の成員相互間の行為の調整方式(集団の役割体系)」(P.223)という説明が、「機能的」という語については「一定目的への貢献」(同P.235)、「複合主体の物化が進む中で、その下位主体は、それが複合主体の目的の達成に貢献する機能の担い手になるといった観点」(同P.263)という説明がそれぞれなされている。これを中島が本文のように意訳した。
*9:というのも、後述するとおり、結社はヒエラルキー=師弟関係を必然的に内包するものではないからだ。他方で、師弟関係や選歌のすべてを一概にヒエラルキーの一種、あるいはその発現と見なすかは議論の余地がある。この点については稿を改める。
*10:カルチャースクールと短歌結社を区分するものを「雑誌の発行の有無」に求めることは可能だが、それだけでは同人組織や職能団体との区別が付かない。「雑誌の発行の有無」は短歌結社の定義に直接関わるものではない。
*11:現代日本語では慣習的に、文章一般や教科書を意味する「テキスト」と、分析対象となる文章や文献を意味する「テクスト」が使い分けられており、本稿でもこれにならう。
*12:歌人はある解釈共同体の中におり、ある解釈戦略を共有している。だからこそ、ある字句を短歌だと認識することができ、その歌の意味を解釈しうる。逆説的にいえば、散文や他の韻文とは異なるものとして短歌を認識することができ、歌の意味を解釈することができる――そのような解釈戦略を持つ者のことを歌人と呼ぶのだともいえよう。また、人為的に形成された解釈共同体を結社と呼び、何らかの解釈戦略を保持していると推定されるゆるやかな解釈共同体を歌壇と呼ぶことも可能だろう。
*13:このような前提が、本文で後述する、永田和宏や大辻隆弘の評論のように、結社の教育的機能への期待を招き、ひいては〈歌壇〉を形成しているのであるが、この点は稿を改める。
*14:本稿で触れた中では永田や大辻の論は、本稿の趣旨と一定程度合致している。その上で本稿は①永田・大辻の論を「解釈共同体」「解釈戦略」という語へと統合・明記すること、②大野道夫『短歌の社会学』への批判的検討、③短歌結社の定義を明確化、④ヒエラルキー、選歌、結社誌発行といった機能を短歌結社の定義の外とすることで、短歌結社の果たすべき目的をより明確化した、という四点に特徴がある。
*15:このような考え方には、どうしても「師となれる者は偉い、そうでない者は偉くない」というヒエラルキーが含まれる。すなわち「解釈戦略に習熟した者が、そうでない者よりも偉い」「解釈戦略を教える者が教わる者より偉い」という思考や感情を会員各人の内面に生み出すのである。ただし、この思考や感情こそが敬意なのであるから、「敬意を感じるな」というのは無理がある。ヒエラルキーを一定程度排する短歌結社の成員には「敬意があるからこそ、なお、その敬意を払う相手に対して平等な態度を保つよう努める」ことが求められる。大野道夫が『短歌の社会学』において、現実の短歌結社に家元制度や師弟関係を看取したのも同様の内面的推論によるものだっただろう。ただし、大野が短歌結社の解釈に師弟関係を(説明なく)適用した点に、立論上問題があったことに変わりはない。
*16:岡井の懸念は、集団形成・組織運営における極めて一般的なものであるが、それゆえに、現今の心理学や行動経済学の研究成果を一定程度生かすことができるとも考えられる。たとえば、行動経済学における「確証バイアス」(信じたい情報を信じる傾向)や「動機づけられた推論」(信じたい方向に結論づける傾向)、「内集団バイアス」(同じ集団に属する者に対して甘く、集団外の者に対して厳しくなる傾向)といった概念が実証的に明らかになっている。これらの傾向は短歌結社においても一般的に見受けられるものであり、また、各短歌結社における解釈戦略の共有にも影響を及ぼしかねない要素でもあろう。もちろん個々人からこれらのバイアス=偏見を除くことは不可能だろう。しかし、七十年以上の間に他分野で研究された成果を、短歌結社の運営に活かしうる者のではないか、とも筆者は(楽観的かもしれないが)期待している。
*17:その点で、選歌を受ける者と受けない者を区分する仕組みは、その区分基準が明確であるならば、ヒエラルキーを部分的にでも排した短歌結社だといいうる。
*18:補註の追補。概念が増えすぎるため、応募原稿には記さなかったが、端的に言えば、「ティーチングとしての結社」ではなく「コーチング/バリューシェアリングの結社」への、考え方の移行を勧めるものである。
*19:この整理は、フィッシュの説に正確には沿っていない、便宜的なものである。『このクラスにテクストはありますか』のほか、法哲学者ロナルド・ドゥオーキンとフィッシュとの論争(大屋雄裕「法命題における意味と解釈」(二〇一八年五月二十三日閲覧)、二〇〇〇)などが参考になる。フィッシュの説に全面的に則るならば、法律の条文のような厳密さを求められるテクストも解釈共同体の産物となる(憲法の解釈も複数存在しうることを認めることになる)。テクストの解釈可能性についての議論は短歌結社に関する議論から遊離してしまうため、必要に応じて別稿で論じる。
*20:「アララギ」の「写生」や、「コスモス」の「みずからの生の証明を」、「心の花」の「広く、深く、おのがじしに」などを例に挙げることができよう。他方、本文でも記したように、文法や歌語、古典や現代における基礎的教養とその解釈、作歌技法や韻律観など、多様な要素が解釈戦略には含まれうる。実際上、短歌結社が共有すべき解釈戦略にはどのような要素が含まれるかについては稿を改める。
*21:補註1の追補。現在話題になっている「ティール組織」の概念も参考になる。
*22:応募原稿では、さらに各記事からの引用を付していた。ブログでは引用を掲載しない