クリエイターのための言語学/言語哲学入門 メショニック『詩学批判』第1章 詩の認識のために(2・仮)

諸事情により更新を停止していますが、ずっと放っておくのも気持ち悪いので、説明しようと思っていた箇所の抜粋のみをひとまず掲載します。
なお、Amazonへのリンクは、文中に登場する人名に関連した日本語書物であって、メショニックが引いている書物・論文そのものとは限りません(可能な限り原書へのAmazonリンクを張ることも検討しましたが、この企画の趣旨に沿わないと判断しました)。

言語行為に省察をめぐらせ、言語行為の中で自己をつくり出し、それを変革する。これが真の作家であった。彼の言語行為においてはもはや万人共通のものは存在しない。(アンリ・メショニック『詩学批判』(未来社竹内信夫・訳、1982)P.11-12)

重要なのは作品に入りこみ、作品をつくっているものを認識し、作品の言語行為が何であるかを知ることである。(ibid.,pp14)

クウィンティリアヌス以来批評家も作家も詩句の中に散文につけ加えられた詩型に関する規則しか見ていなかったことと対比して考えよ)(ibid.,pp16)

弁論家の教育〈1〉 (西洋古典叢書)

弁論家の教育〈1〉 (西洋古典叢書)

ひとつの語はもはや単にひとつの語というのではなく、<テクストの中におかれたもの>つまりコンテクストなのである。そこから隠喩に関する新しい考え方が生じてくる。文が語の意味をつくるのであって語が文の意味をつくるのではないのと同様に、作品の中で語の意味を作るのは作品であり、文体を成すのは作品であり、文体が作品をつくるのではない。語のもつ多義性の研究はこうなると外示ではなく共示の平面でとらえられなければならない。(原注4)(ibid.,pp16-17)

(原注4)しかしだからと言ってコーエン(中略)が言うように外示(denotation)と共示(connotation)との間に二律背反があるのではない。意味というのは単に外示的だというのではない。共示的意味作用は「外示的コードに対する違反」なのではない。それはもうひとつ別のという関係であり、もちろん対立するものではあるが反対者に限定される関係ではない。共示はもうひとつ別のリズムであり論理なのである。それが外示的世界のリズムと論理を、すべて(韻律から統辞に至る、また、語の位置から文全体の構成に至るまでのすべて)が意味に参加するひとつの空間に統合するのである。(ibid.,pp46-47)

二十世紀の文学批評

二十世紀の文学批評

作品が、散文であれ詩であれ形としての語の中にすっかり存在しているのではないのと同様に、作品がテクストの文法(テキストの構造)というものの中にすっかり存在する(原注9)――ヤコブソンは最近ますます作品をその構造と同一に論ずる傾向にあるように見えるが――訳ではない。体系的精神をもっておし進められた形式的分析はただ単に知覚されるものの領域を超えているばかりか、価値の問題を単に構造の複合性の中にのみ置き、ヴァレリーが詩句の音の織目を織るために為したものを統辞的レベルに移し、そこに分析を固定し、作品全体の語相互のパラディグマ的関係を見ることなく、既に存在する形式(ソネ、アレクサンドラン)の構造をその形式の独自な使用と混同している。(ibid.,pp18)

(原注9)リファテールのヤコブソン批判(中略)を見よ。(中略)「言語学的実現と詩的実現とが覆う範囲ははたして同じだろうか。……記述された構造は詩と読者との触れ合いをつくり出すものを説明しない。」(ibid.,pp47-48)

詩の記号論

詩の記号論

価値は、文学の理論に、歴史に、ひとつの生の記録としての伝記に、要するにひとつの文化的集合体に固有の要素をそのうちに含む。価値とは切り離し難く同時に技法と精神との不安なのである。(ibid.,pp20)

最も重大な事、再検討を要しその状況を定めなければならないのは、「詩的機能」というヤコブソンの中心概念である。またそれと詩との関係である。ヤコブソンが定義するのは詩ではなく単に「詩的機能」なのである。(ibid.,pp21)

一般言語学

一般言語学

詩の認識は、言辞的水準の事象を、今述べた*1二重の産出――自己と読者との――のより広い理解のうちに包みこまなければならない。(ibid.,pp23)

価値としての作品は、個人的メッセージの内的必然(それが創造性なのだ)と、ある社会、ある集団に共通な与えられたコード(ジャンルとかその時代の文学言語の在り様など)、使い古された既に存在する諸々の価値の全体――文字通り「共通の場」つまり「常識」(誰もが知っていること)――であるコードとの間の闘いによってしか生命を保たない。(中略)真の作家は価値を語る。(中略)言語学的な意味においてではなく文学的意味におけるメッセージでは概念的内容(通常理解されるメッセージとはこのことである)はシステムとしての作品を意味づける価値と切り離すことはできない。(中略)以上のことがコードの中の価値の存在(いわば「ジャンル」の中での作品の存在)の様態如何という問題を提起することになる。(ibid.,pp29-30)

*2

オリジナリティの概念は方法論の基礎となることはできない。作品を言語学的事象に限定することはできない。(ibid.,pp31)

作品の哲学

作品の哲学

*3

文学がジャンル別の詩学の衣を脱いだ後にその詩学をもう一度とりあげようとする批評(自らは批評ではなく科学だと思っているのだが)の逆説。この批評はジャンルの類別に基礎を置く文学伝統にしか適用できないだろう。現代文学への適用は不可能である。事実、現代の作品に限らず作品というもの(絶対的な意味での作品、つまり強力な作品、<形−意味>としての作品)は予め規定され、既に存在するひとつの形態を「充たす」のではない。ひとつの形態を創出するのだ。(ibid.,pp32)

*4

問題は所謂一般的名ジャンルの詩学の可能性の是非なのである。文学に作品と同じ現実性を与えるのは幻想である。(ibid.,pp34)

詩人が詩の中に自国語の可能性の開拓を見、技法を「内容」に含め、それに同化する時、言語学者と詩人は出会うことになる。そこでは詩的言語の調整機能を果たしているとしても(中略)、理解すべき語が全体の中の一項であるのだから、それだけで事柄が明確になるわけではない(ibid.,pp40-41)

<書くこと>の認識、それこそが詩学=詩の認識のあるべき姿なのだ。それと言うのも、ひとつの作品が固有の濃密さをもつのはその作品がそれ固有の詩語でつくり成されているからなのである(エズラ・パウンドの言葉「可能な極限まで語を意味によって充填すること」)。そして、これらの詩語(はこれらの詩語の織り成す内的関係であるから後になってしか知覚されない。そしてというこの名称は、普通には発見の意識を言う語であるよりも、既に得られたものにつけられた受動的な名称なのである)、これらの詩語が言語世界の新たなる開拓であるのはそれが一個の人間の探求であるからなのだ。(ibid.,pp45)

パウンド詩集 (海外詩文庫)

パウンド詩集 (海外詩文庫)


以上、メショニック『詩学批判』「第1章 詩の認識のために」からの引用です。説明とメショニックへの批判は後日、私の体調回復後=職場復帰後に。
歌人俳人にも本書を手にとって欲しいのですが、非定型の現代詩を作る詩人は特に(この企画が終わる前に。というのもこの企画でそこまで至れるかどうか分からないので)『詩学批判』の核である韻律論「第2章 詩の空間」を読んでおくことをお勧めします。

*1:引用者註:この前の箇所は、ここでは直接引用しない。後日、別途説明したい。

*2:この箇所を読んだとき、短歌を始めた高校生の頃から現在に至るまで、自分の問題意識が間違っていなかった、と非常に安堵した。

*3:詩歌における「作品」という概念の検討は、今回の『詩学批判』以外でも、つまり詩歌以外の分野の「作品」を通じても、行われる必要がある。このことから、本企画を「歌人のための」とか「モノ書きのための」とかではなく「クリエイターのための」と大見得を切った。なお、『作品の哲学』はこの企画で取り扱う予定。

*4:この箇所については、次回以降、前後の繋がりを説明しなければならない。