「心が弱い」などなど*3

 小学生の頃、片思いしていた女の子に言われた「ナカシマくんってさ、心が弱いよね」という、根拠も判断基準も何も無い言葉、その割に苛立たしい言葉が嫌だった。だけれども、今までの私を規定或いは表現してきた、ただし消極的な言葉の一つではあるだろう。

 確かに私は余りコミュニケーションの巧いほうではないが、だからこそ子供の頃から相手を理解する方法や自己を表現する方法について悩み、思いを巡らせて来た。でも、相手の振る舞いや言葉の全てが分かる訳ではないのだから、なおさらそれらをなるべく多く受け止めるために、可能な限り悩む。諦めないで考える。私も頭が悪いから、誰もが認める結論に辿り着けないけれど、考え抜くことはできるはずだ。悩む様子が「弱く」見えても、考え抜く姿勢は「弱さから立ち上がる強さ」なのではないか?

 だから、「分からない」や「難しい」も安易に使うべき言葉じゃないと思う。他人の言葉を私は分からないなら、あるいは難しく感じるなら、それは私の理解力や忍耐力が無かっただけのこと。もちろん、相手の言い方が悪い場合もあるけれど、それならそれで意味が分かるまで私が訊ねればいいことだし、その上で相手の話し方の問題点と改善方法をきっちり伝えられればいい。

 「意味が無い」なんて以ての外。それこそナンセンス。どんな言葉や振る舞いにも、その人の性格や経験、その場面で伝えきれなかった想い、声にならない声が含まれている。行為や言葉だけじゃなく、世界のどんなものにも(その善し悪しは別に考えるとしても)意味はある。

 逆に「〜らしい」と表現して、相手の行動や発言の意味を固定的に捉えることも問題だろう。例えば「短歌らしさ」を想定することで、考え抜くことを放棄してしまっては、短歌の新たな可能性を捨ててしまってはいないだろうか。

 ただ、こういう私の考えを片思いの女性に話してもまず理解してもらえない。なぜ理解してもらえないのかは私にも「分からない」。でも、そういう様子が「ナカシマらしい」んだってさ。なんだそりゃ。