黒瀬珂瀾第一歌集『黒耀宮』書評(乃至は素描)

 私が黒瀬珂瀾氏に初めて会ったのは2000年6月である。歌人なるものをほとんど見た事さえ無かった当時、短歌に対して、文学に対して真摯な態度を取り続ける同い歳というものは畏敬の対象であった。彼に関して言えば、それは今でも同じである。
それから約半年後、彼はNHKのETV2001「電脳短歌の世界」に登場する。Jean -Paul Gaultierのスカートを穿き、「世界が怖い」「世界と自分とを繋ぐ橋が短歌である」と言う様子からは、どの部分が彼の本性から発したものであるのか、或いはパフォーマンスでしかないのか、未だ判然としない。

1.fragileな黒瀬像
 ところで、『黒耀宮』に寄せられた春日井建氏による序が美文であることは誰もが認めるところであろう。その序文の最初に、第一章である「夜への餞別」の最初の歌と最後の歌
  The world is mine とひくく呟けばはるけき空は迫りぬ吾に (夜への餞別)
  語られてゆくべきマグナ・ディザスタ大災害はひめやかに来む秋冷の朝 (夜への餞別)
について、「[人の孤独が詠われた連作を読みマグナ・ディザスタ大災害の歌へと至るとき、このマグナ・ディザスタ大災害が黒瀬自身のものでもある。] 今日、世界を私のものだと感受することは決して子供っぽい夢想だけではすまされない」と春日井氏は述べる。しかし、<世界を私のものだと感受する>黒瀬と<世界が怖い>黒瀬とを思い描くとき、それらの間には幾分のズレがあるように感じられる(確かに、世界に恐怖を感じる者が却って世界を恐怖によって所有しようとした歴史上の事例は幾つか思いつくのだが)。例えば、巻頭第1首目の場合、「The world is mine」と、作中主体は低音で呟くのであって、高らかな「宣言」(序文)と受け止めるには若干躊躇される。もし、真に「世界は吾がもの」であるならば、「吾」の認識する「はるけき空」は迫ってくるというよりも、もっと矮小化されたもの、むしろ「世界は吾がものにならない」と描かれるのではないか。
 まずは、このようなfragile(壊れやすい)な黒瀬像を春日井氏の描いた黒瀬像と頭の中で並置しておいて欲しい。

2.引用性とその多面性―黒瀬像・再論
この歌集は「多彩なモチーフ内容と素材によって成立」(序文)する、「世界についての断片」(「最後に」)である故に、全体を一貫して読解することが難解である。にも関わらず、春日井氏の序文は個別の用語に解説を加えながら計四つの解釈機軸を挙げることで、読者にこの歌集への拒否反応を示させない、素晴らしい導入となっている。つまり、<ファロセントリズム男権中心主義><メンタルフィメール女性型精神構造保持>というジェンダーセクシャリティに関するモチーフ内容と、<神話・古典など歴史的要素><サブ・カルチャーなど現代的要素>という素材の四つである。特に後二者についてはその個別の用語にまで触れられている。
敢えて私は、春日井氏の挙げた四つの解釈機軸に、別の軸を加えてみたい。<マニエリスム>(註)<ヴィジュアル系音楽><ボーイズラブ>といったものである。春日井氏の軸とここで挙げた三つは相関関係にある。例えば、<ヴィジュアル系音楽>や<ボーイズラブ>は<サブ・カルチャー/現代的要素>の一つでありながらその背景に<マニエリスム>を垣間見せ、<マニエリスム>は勿論<歴史的要素>を含有する。
ここで一つの軸、例えば<ヴィジュアル系音楽>を挙げて、幾つか関係しそうな歌を挙げてみよう。
 darker than darknessだと僕の目を評して君は髪を切りにゆく (夏の闇)
 その胸の蒼く焼けつく傷を愛でおまへは愛に汚名を着せたYou give love a badname (劇場の男)
いまhideの亡霊といふ顔をして酒飲むものがむらぎもにあり (この世のすべて)
「darker than darkness」はヴィジュアル系バンドBUCK-TICKが93年に発表したアルバム名である。同様に(ヴィジュアル系ではないが)、「You give love a badname」はBON JOVIをトップアーティストに押し上げることとなった86年発売のシングルの題名(邦題「禁じられた愛」)である。hideは98年に亡くなり、ファンによる後追い自殺さえ発生したX-JAPANのギタリストであろう。
 しかし、<ヴィジュアル系音楽>という軸を持って見てみると、ある用語群に当るだけで明確な解釈が生まれるわけではない。「僕の目を評」する君は<ファロセントリズム男権中心主義>であっても<メンタルフィメール女性型精神構造保持>であっても構わない。「hide」にばかり目を取られては「むらぎも」を忘れてしまうかも知れない。黒瀬の歌はこれらの軸と軸の境界にある、と言ってもいいだろう。好例がある。
絶唱をしらずラクリマ・クリステのかつて宴に賭けし青年 (転生の歌)
という歌を、「La'cryma Christi」というヴィジュアル系バンドのファンである青年が宴を行った情景を詠っていると捉えることも出来る。しかし、「キリストの涙」というラテン語での宗教的原義や逸話(幾つかの説がある)への想いがあって詠われたと読解することが出来るだろう。更に、その逸話にまつわる実在の高名なワインを飲み「何故キリストはドイツに涙を落とさなかったのか」と嘆いたと言われる、ワイン好きのゲーテを「青年」と呼び、詠っているとも読解出来る。
 巻頭第1首目も同様に考察できよう。そもそも「The world is mine」とは「世界は吾がもの」を意味するのか、と。<サブ・カルチャー/現代的要素>から見れば、もしかすると新井英樹氏による同名の漫画を指しているのかも知れないし、「世界は地雷(mine)だらけ」という地雷撤去NPOの宣伝文かも知れない(実際にこの英文をインターネット上で検索した際、この二例が挙がった)。そして、実は<マニエリスム>の視点からであれば、「世界は吾がもの」という宣言も「世界は吾がものにならない」という疎外感や自己愛も、或いは世界の支配者である黒瀬像もfragileな黒瀬像も、等しく可能なのである。そして、その両者の共通項を「ここに私が居る」という自己主張として受け取ることも出来るだろう。前節で挙げた春日井氏の見方も私の見方も、両立されないものでは決して無い。
3.引用性の彼方―包括的な黒瀬像
そもそも引用性とは何であったか。構造主義者たち、例えばU.エーコが言ったように全ての文章は過去の文章の再構成であり、その過程には「作者の死」(R.バルト)が存する。しかし、それは犬死ではない。「引用されることにより所与のコンテクストは粉砕され、決して満たされることの無い無限の新しいコンテクストが作られる」(J.デリダ)、そのような未踏の地(或いは知)へ進み続ける契機となる。更にフーコーやサイードポスト構造主義者のことを思い出してもよい。
黒瀬氏の歌は多様な引用によって多様な読解を受け入れる作品となっている。だからこそ様々な意味を抱えた歌がそこに顕れ、そこから「無限の新しいコンテクスト」として幾つもの黒瀬像が生まれ、等しく成立しうるのだ。また、その引用は彼の「死を孕ん」(序文)だ強烈な美意識を通じて行われている。最初から彼は「作者の死」を生きることによって、歌壇に新たな要素を付け加えたといえるだろう。
しかし、『黒耀宮』の新しさはそれだけに留まるのではない。つまり、黒瀬珂瀾という興味深い歌人が彼の内面に沿った『黒耀宮』という歌集を作り上げたのみならず、彼自身が『黒耀宮』を代表し象徴する一つの装置でもあるのだ。例えば、彼の実際の外見や仕種を思い返して欲しい。そこには春日井氏の黒瀬像と私の黒瀬像と、そのどちらもを見て取ることが出来るだろう。支配者と被-支配者というアンビバレントな像を彼自身が持っていることで、所謂短歌的な私性から発して、引用性という彼以外の他者を経ることで、新たなる作者像、つまり「作品と連動する、私という作者」を黒瀬珂瀾は獲得するに至ったのである。そのような観点から『黒耀宮』が引用性を超えた新境地へと向かう一つの方向性を示した作品である、と私は評価するのである。

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(註)マニエリスムに関しては2003年2月9日に大阪で行われた五歌集合評会に於いて、林和清氏が既に言及しており、この文を書く上で大変に参考にさせて頂きました。また、春日井建氏の序文には多大なインスピレーションを与えられました。ここにお礼申し上げます。