インターネットの私性と短歌の詩性*5


  0.この問いの前提

 「AとB」という形式は、一見異なるものが同一であるとするのか、或いはその逆であるのか、いずれにせよ古くから用いられてきたものである。「言葉と物」「声と現象」「陸と海」「ビートルズローリングストーンズ」「修二と彰」「セーラー服と機関銃」・・・様々なヴァリエーションが想像できることと思う。この「と」には、例えば<対立>や<比較>、<同義>や<相似>、<並列>や<イメージの飛躍>といった関係を作り出す効果がある。短歌らしく言えば、ニ物衝迫とでも言おうか。

 今回、「短歌とインターネット」という題について考える場合、一首の読解と同様に、これら二つの概念を整理し関係を解き明かすべきであろう。短歌とインターネットはコンテンツとメディア、ソフトとハードという相補的な関係であるのか、コミュニティとその産物(原因と結果、集合とその要素)であるのか、伝統とその破壊者(対立関係)であるのか。或いは、私について/に基づいて/から言及する、類似した構造を持つ様式(相似)であるのか。もちろん、それ以外であるのかもしれない。

 先に私の考えを述べておくと、「短歌とインターネット」はそれぞれソフトとハードという関係にあるが、同時に<私について/に基づいて/から>の表現、いわば<私性>に基づいた表現としての共通項をもち、更にはインターネットが短歌や短歌における<私性>を新たな方向へ推し進める可能性を持つのではないか、と思うのである。

  1.インターネットの私性

 インターネットというメディアの起源は、1960年代半ばにアメリカ国防総省が開発したコンピューターネットワークであった。攻撃を受けて一部のコンピューターが破壊されてもコンピューター同士を繋いでデータを共有して保全を図る、という軍事的な目的で作られ、当時はアーパネットと呼ばれていた。その後、開発の比較的初期の段階で電子メールというシステムが開発され、<コンピューターとコンピューター>をつなぐことが同時に<人と人>を繋ぐことを意味するようになったのである。

 この過程はモールス信号のような電信や電話といった、インターネットと同じ非対面型コミュニケーション全般が辿ってきたものでもある。例えば、19世紀には鉄道会社は駅と駅の間の連絡を行うためにモールス信号を操る電信技師が存在したが、電信技師たちは仕事の合間に、私的で記録に残らない連絡を取り合い、その結果、ほとんど実際に対面する機会のない数千人からなるオンライン・コミュニティが出来上がっていた。彼らは独自の署名や言葉の言い回しから、電信技師個人が識別できたという。ちなみに19世紀末のアメリカの新聞や雑誌では、電信技師同士の遠距離恋愛についての小説やドキュメンタリィ、電信技師同士が性別を偽る、或いは勘違いする物語が掲載されている。映画「Love Letter」や「電車男」のような物語は100年以上前から原型が存在していたのだ。

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 問題はそのような物語が新しいとか古いとか言うことではない。実際に対面することのないオフライン・コミュニティやオフライン・コミュニケーションの中では(例えば、恋愛が出来るくらいに)、発話者は個人が特定され自らの人となりを示そうと、受話者は個人を特定しその人となりを知ろうと振舞ってきたか、或いはそう振舞わざるを得ない傾向があるということである。
 20世紀末から急速に発展してきたインターネットの場合、電子メールやホームページ、近年ではブログやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)のような機能がある。それらも電信技師と同様で、電子メールアドレスやブログに書かれたプロフィール、SNS上での友人関係、そしてそれらの機能を使う個人に独特の署名や言葉の言い回しなどから、程度の差こそあれオンライン・コミュニティの受話者は、発話者がどのような人なのかが分かり、特定することができる。
 反対に、個人が特定されない、匿名性を得ることもインターネットの利用においては重要な要素である。自分もどこのサイトを見ているかを、他の誰かに知られるとなると、はずかしくなってしまうだろう。他にも仮名を使わなければ書けないような内容のブログを書いている人もいるだろう。可能的自己を、つまり「こうなりたかった」と夢見てきたような虚構的な自分や異なる性別の自分を演じている人も、非対面の場だからこそ存在するだろう。
 しかし、匿名性を獲得することが出来る非対面の場であるとはいえ、意見を表明し、或いは何らかの作品を発表する場合となれば話は別である。社会心理学の最近の研究によると、発話者は非対面の場で意見を表明する場合、その意見を述べる上で必要であると(発話者にとって)思われる自らの立場やその立場を形成する背景を予め明らかにする、つまり自己を開示する傾向があるという。また、その際には、発話者が匿名であると同時に、発話者にとっても受話者も匿名であるため、どんな受話者にとっても理解されるよう、職業や年齢、性別のような一般的な、いわば没個性的な要素で自らを説明する傾向が見受けられる(言葉それ自体がある程度没個性的だからこそ、受話者にも通じるのだから当然のことなのだが)。
 「匿名の個人と個人の同定とを併用する」「自らの個性を説明するために、一般的な言葉を使う」といった傾向はインターネットと言葉の関係、インターネットと短歌の関係を考えるヒントの一つとなろう。

  2.短歌と私性の関係と、社会心理学的アプローチ
 短歌とは<私性>の文学である、或いは一人称の文学である、とはよく言われるが、この<私性>とは一体何であったか、念のために確認しておきたい。
 与謝野鉄幹の「小生の詩は、即ち小生の詩に御座候ふ」という宣言は、それ以前の各流派の意識や技法により抑圧されていた個人の表現意識を解放するよう提唱したものである。正岡子規により「写生」という理念が考え出されるに伴い、私性は「自己の生の一回性や交換不可能性の自覚と結びついた個の意識」(『岩波現代短歌辞典』)となる。この子規の規定は、当時の自然主義思潮との同調を経て、「実感重視の体験主義」(同前)という要素を持つようになるが、「歌風の統一強化に伴う没個性化」(同前)や「私的な告白性を基調とした事実主義は、しばしば単なる現実の報告にまで堕する」(同前)状況を引き起こした。このような事実主義を批判する前衛短歌の登場に伴い、<私性>は虚構としての「私」、或いは「私」が感得するところの虚構という性質を獲得することとなる。しかし、虚構性を<私性>が含むようになった結果、その<私性>自体が疑わしくなってしまった。
 これらを哲学風に、いささか乱暴にまとめるならば、<私性>を巡る歴史は「自我の確立」に始まり、そのような「自我」による「表現の差別化」を促す諸要素から成り立っている、ということになろう(この自我を近代哲学以降の「自我」に引き寄せて考えてみると分かりやすい。例えば、デカルトの「考える故に我あり」という言葉によって示されるような「考える我」であり、その「考える我」の認識が外界を規定する、つまり私が感じている世界は私が作り出した虚構である可能性もある、といった具合に)。
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 ここで、短歌における<私性>の問題を、インターネットと「私」の関係に用いた社会心理学的な概念を援用しつつ考えてみることもできるだろう。
 短歌とインターネットにおいては、私が発話主体=短歌の作者である場合、発話=短歌の作品それ自体の中で、個別的で差別化された自己を開示することを求められている、という共通項がある。それと同時に、読者は作品を、作者と対面して知るのではなく、印刷された結社誌や映像としてのモニターを通じて読むという点で、作者は常に非対面・匿名の場で作品を発表する必要があるのだが、そのような匿名の場であるがゆえに、かえって発話者は自己開示を要請される逆説を抱えることになる。他方で、その匿名性は、可能的自己、つまり虚構的な自己というものを容認するものでもあるために、自己開示のヴァリエーションが豊かにし、他方で自己開示に対する或る程度の不安をもたらすようになったのである。

  3.インターネットと私性における展望 ―「ネット短歌」を巡って
 ここまでは、インターネットと<私>の関係を説明する社会心理学の概念を援用し、短歌における<私性>を説明しようとする試みであった。しかし、作者=発話者と作品=発話内容との距離感が相似しているという点で、インターネットと短歌との関係は親和的であると言える。
 確かに、インターネット上で発表されている短歌を例に挙げていえば、紙媒体としての結社誌のように、電話回線とモニターという電子媒体を通じて我々は短歌を読むのであり、このときのインターネットは、短歌というソフトを配信する単なるメディアとしての一面しかない。しかし、そのメディアのあり方が非対面の場を形成し匿名性を促す場合に、メディアというハードが発話内容というソフトに対して影響を与えることは、既に見てきたとおりである。ならば、インターネットや結社誌というメディアそれ自体が、そこで発表される短歌に対して影響を与えていると考えるべきであろう。
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 このメディアの違いが短歌にどのような変容を与えるのかについて考える上で、インターネット上で発表される短歌、いわゆる「ネット短歌」が一つの切り口になる(本来であれば、ネット短歌はインターネットを主たる発表媒体とした全ての短歌を指すことになるのだが、オンラインかオフラインかという区別とは違った形で既に流通している「ネット短歌」の概念を、ここでは仮に適用しておきたい)。
短歌ヴァーサス』第6号では「ネット短歌はだめなのか」という特集の中で吉川宏志荻原裕幸の対談を行っており、冒頭から作者が提示する自己像への不信感、リアリティの根拠について語られたあと、吉川は以下のように述べている。
  「情報社会が進んで、匿名的で何か信用できない言葉が、我々の周辺にどっと入ってきたことは否定できないわけで、その不信感が象徴的に「ネット短歌」というキーワードにあらわれているんじゃないかな。」
この言に従えば、いささか強引ではあるが、「メディアの情報化による匿名性(の高まり)に対する不信感」が「ネット短歌」を旧来的な短歌と差別化している点、インターネットと結社誌というメディアそれ自体がもつ相違点とも言えるだろう。
 確かに、結社や新聞歌壇は選者が存在するがゆえに階層的・権威的となり、歌風の完成・統一や、掲載される歌の質の維持を図ることができる。それに対して、インターネットは匿名的で誰しもが発表する機会を与えられているがゆえに平板・平等であるが、そのために歌風が未成熟で、歌の質も平均して低くなる傾向があるかもしれない。
 ここでメディアと匿名性の関係を思い起こしていただきたい。メディアが担保する匿名性それ自体が自己開示を促し、それ同時に可能的自己・虚構的自己を可能にしてきたのであった。
 もちろん、インターネットというメディアの匿名性は、特定の誰かに宛てて発信される電子メール的な(これにかこつけて「郵便的」とも言えようが)、より強い自己開示を、それも極めて一般化・陳腐化された形で促すかもしれない。虚構性や虚偽が自己開示の不信感を招くかもしれない。
 しかし、虚構としての「私」、或いは「私」が感得するところの虚構は、インターネットとその匿名性において十分に許容・拡大される。前衛短歌のような虚構的・象徴的な短歌がインターネットを通じて、新たに、より豊かな形で生み出され流通する可能性もあるのだ。私はその可能性に賭けてみたいと思っている。