ジゼル・ヴィエンヌ『こうしておまえは消え去る』

F/T10秋一発目に見ました。Twitterにも書きましたが、ひどい作品だと思う。(以下ネタバレを含みます。)
美術、照明、音楽、コンセプトテキスト(詩)、全部が一流なのに演出が台無しにしていく感じ。部屋も皿も、食材も一緒にテーブルを囲む仲間も、全てが最高なのにシェフが二流で、無理にフォアグラを和食に仕立てちゃうくらい料理がダメ、みたいな。

ピーピングトム『ヴァンデンブランデン通り32番地』へのコメント(もTwitterで、ですが)と同じなんですが、この作品は概念処理と演出が致命的に噛み合ってない。
F/T公式サイトに書かれている作品紹介は以下の通り。

本作の舞台はハイパーリアルな森。舞台上に精緻に構築される深淵な木立ちの中、本作のコンセプトを表象する3人の登場人物が怪しい物語を展開する。

彼等は、社会における3つのアーキタイプをそれぞれ象徴する。完璧な外見と技術を持つ"体操選手"は、フリードリヒ・ニーチェの哲学思想における「アポロン的な美」を体現し、一方でまるでカート・コバーンを連想させる不安定で精神の崩壊した"ロックスター"は、「ディオニュソス的な美」を体現している。彼等は、現代文化における対極的な憧憬の存在を表すかのようだ。他方で、2人の関係に介在する第3の登場人物"コーチ"は、権威主義と秩序を象徴する。そして、一見すると清らかで健全な森は、登場人物の隠されていた内面性があらわになるにつれて、まるでロマン主義絵画の自然描写と同様、人間の精神状態を反映するかのごとく、次第に陰暗な場へと変容していく―。

黙々と身体を鍛え、技術を磨き、さらなる完璧と調和をめざす"体操選手"と"コーチ"。しかし、2人がトレーニングをしている時、森に迷い込んできた薬物中毒の"ロックスター"と出会ったことで、3者の関係が徐々にゆがみ始める。それまで、"コーチ"が抑圧してきた「"完璧"な存在を殺したい」という暴力的欲求が、"ロックスター"のあるマゾヒスティックな言葉に刺激され、ついには3人の関係は凄惨で衝撃的な行為に及ぶのだ―。

理性と衝動、欲望と抑圧、調和と無秩序、完璧と崩壊、生と死、幻想、倒錯―相反する様々な概念や混沌とした人間の本性が森に放散される。デニス・クーパーの退廃的なテキストが響くこの超審美的空間で起こるドラマを通して、観客は己の深層心理を震撼させられるに違いない。

これを読まずに舞台を観ましたが、観ながら「これが舞台作品として願った方向だろうな」と理解したところと大差なし。でも、これだけではクーパーの優れたテキスト(詩)の世界を森に置き、登場人物に象徴させただけ。舞台芸術として提示するには、演出によって登場人物の<関係>を描き出すことが肝要だけれど、その演出がぽっかり抜け落ちてしまっていると感じたわけです。


全体の流れはこう。

  • (最初の数分)体操選手が横に寝る中、コーチが何かを掘り起こす/埋める
  • コーチが体操選手のストレッチを助け、トレーニングする
  • コーチは立ち去り、体操選手が一人でもにょもにょ動く
  • 舞台中を隠す白い霧にまぎれて舞台転換
  • ロックスターがふらふら歩く
  • コーチが登場して、ロックスターをビンで殴る
  • 「何者か」と「”ロックスター”風の何者か」の死が3人の子供(の人形)に発見される
  • 霧にまぎれて舞台転換。霧が明けたところで鳥が上手手前に居て、上手に消える。
  • (衣装を変えたコーチだがそうとは分からなくてもよいが)男性が木の的に向かってアーチェリーをする。
  • 下手からふくろうが登場。上手へ消える。

で、2名以上が登場して、彼らの<関係>を表したのは「コーチと体操選手のトレーニング」「コーチがロックスターの話を聞き、ビンで殴る」「彼ら(のような誰か)の死」だけ。それも<関係>が動的に変容することなく。
関係を変容させないなら、舞台芸術という形で提示する意味がない。俳優以外の、美術と音楽とテキストと人形などだけで十分に上述のイメージは象徴できてしまう。じゃあ、ジゼル・ヴィエンヌは俳優に、人形にも美術にも代替できないようなものを演出したのか?それが致命的に<ない>。なので、舞台芸術作品として提示される意味もない。


だから、「この作品は『こうして俳優の意味は消え去る』でしかない」とTwitterでコメントしたわけです。