片上雅仁氏「中島祐介の表現形式」(「遊子」2004年2月号)にこたえる

ある文章を書いた勢いで、14年前の精算をしておこうと思う。これまで何度も取り組み、何度も書ききる気を失ったものだ。文章はとても雑になるだろうが、勢いで書ききってみよう。
同人誌「遊子」2004年2月号(11号)に掲載された片上雅仁氏「中島祐介の表現形式」(P.63~66)についてである。まずは14年以上もお待たせしたことを片上氏及び「遊子」読者諸賢に伏してお詫び申し上げたい。遅きに失した、と言われれば確かにそのとおりだ。


(以下敬称略)


片上雅仁「中島祐介の表現形式」は、中島が第2回歌葉新人賞に応募し、その後第1歌集『Starving Stargazer』(ながらみ書房、2008)に収録した三十首連作「無菌室に行く為の舞踏譜」、特にそこで実践した実験的表現形式「多声のコンポジション」に対する批判である。なお、多声のコンポジションとは「日本語の短歌形式のルビを付した外国語短歌」である。
その当時から今までこの批判に応える意義が私にとって一切見いだせなかったのは、間違えた名前を表題に据えた批判に応える気になかなかならなかったのが一因だが、それ以上に、この批判に私が応えることで片上が理解できるようなら最初から批判なぞしないのではないか?と思えてならないからだ。
少なくとも、これに応えることは多声のコンポジションという実験様式そのものに秘めた意図や意義を明かしてしまうことになる。その時点での意図や意義を言明することで、かえってその言明に実験がとらわれることになる。実験の終結を宣言することになる。それなら同種の実作を続けて意義を示すほうが有意義ではないか?と考えていた。


ここで片上に応える意義をようやく見出したとすれば、多声のコンポジションという詩的実験の終結を宣言してもいいという気になったからだ。


ひとまず、片上の批判を順に整理してみよう。以下、あくまで中島の要約であって、片上の本意とは異なる可能性を予めご了承いただきたい。

  • 「R.S.V.P. 45 RPM signifie "45 re'volutions per minute". C’est une fac~on.(ルビ=確変よりも続く 往来の吐瀉物の中では毎分45回、変革)」について
    • フランス語と英語が混じっている意味がわからない。
    • フランス語の基本的なところで間違っている。
    • フランス語と日本語ルビの意味のズレがある。
      • 意味がずれたところで、詩的な広がりがない。
      • 他の歌を見ると外国語と日本語の間の意味に関連が見いだせないものがある。
  • 「But its revolution isn't prior to voluntary vomiting of voodoo-votary.(ルビ=革命とは渦を巻きつつ在る種が反物質に変わる術式)」について
    • VO音をつなげただけではないか
    • 「読者としては『だから何なのさ?』という印象を持つだけである。」(P.65)
  • 中島はフリガナをなんだと思っているのか
    • 塚本の「装飾楽句」に「カデンツァ」とフリガナをふるのは正しい。
    • 中島のフリガナのふり方は正しい仕方ではない。


ここからが片上の批判の肝であるので、長くなるが引用させていただく。

中島氏がやっているのは、これともちがう。欧文に並んでくっついている小さな文字の日本文は、要は決してフリガナでもその延長でもなく、欧文の翻訳でもなく、全く別の短文作品なのであり、西洋語短文と日本語短文とが交互に登場してきているだけなのである。もしも、大きめの文字でヘブライ語の短文が書かれていて、その上か下にピッタリくっつけて小さめの文字でアラビア語が書かれており、アラビア語のほうがヘブライ語のほうの翻訳でもなければヘブライ語の発音を表しているのでもなく、両者の意味内容も全く異なるものであるとすれば、そして、そういうのが三十組ほど連続して並んでいるとすれば、アラビア語ヘブライ語の両方を理解する人(中東にはこういう人も実際にいる)は、これをどのように読むであろうか。中島氏がやっているのは、これと同じことなのである。
ほんとうに、この作者は、何のために、誰に読ませたくて、こんなことをしているのだろうか。45RPMという英語の省略語の意味をフランス語で解説している短文を、フランス語は理解するが英語は理解しない人のために提示するのではなく、日本語として読まれることが前提の「短歌」として発表することに、何の意味があるのだろうか。まさか、この作者、英語やフランス語の部分はたいていの読者には理解できないであろうということを前提に、言わば画像的装飾としてこれら欧文を並べて見せているわけではあるまい。(もしそうだとすれば、それは、英語・フランス語・日本語それぞれの言語で生活している人々に対する許し難い冒涜であり、言語そのものに対する冒涜でもある。)
中島氏が、英語やフランス語で、どのような言語表現を試みようが、それは中島氏の自由である。そして、それら英語やフランス語の短文を、日本語短歌と交互に登場させるような表現もまた自由である。そういう表現が、英語もフランス語も日本語もよく理解する人に対しては、文学的感動なり感興なりを与える可能性は、充分にある。しかし、その場合、英語・フランス語・日本語それぞれの作品は、それぞれに別個独立のものとして提示されなければならない。そして、その一連は、純粋に短歌ではない。日本語短歌と、他の言語の短文の混合物である。
欧文の横にフリガナモドキの日本文がついているという形のものを、その欧文と日本文とを一組にして一首の短歌と認めるわけには、絶対にいかない。全く異なる二つ言語の、二つの別個の言語作品を、まとめて一つの作品と捉えるわけにはいかないのである。
この形式の中島氏の作品は、いくつかの短歌誌においても活字になっているようであるが、私がもしもこれら歌誌の編集者であったならば、このような作品を「短歌」として掲載することは必ず拒否するであろう。言語が異なるということの凄まじさを、人が特定の言語で表現するということの人にとっての重たさを、この作者は、あまり深く考えても感じてもいないようである。その鈍感と軽薄が、私にはまことに腹立たしい。


前半は、長く引用した後半の補助線となっている。前半のうち

  • 「R.S.V.P. 45 RPM signifie "45 revolutions per minute". C’est une fac~on.(ルビ=確変よりも続く 往来の吐瀉物の中では毎分45回、変革)」について
    • フランス語の基本的なところで間違っている。

点については、当時、名詞「revolution」(英語)及び冠詞「une」(フランス語)のタイプミスがあったことを認める。片上の指摘に感謝申し上げる。


後半の指摘を順に見ていこう。結論を先取りして言えば「中島の綴りミスによるミスリーディングはあった。しかし、それは詩的実験の失敗すべてを意味するものではない。片上は或る〈正しさ〉への固定観念に囚われているが、本連作による詩的実験は短歌自体の〈正しさ〉を拡張する(=実験前の段階では〈間違っている〉とみなされる)目的で実施されたものであり、それは一定程度果たされた」ということである。


順に引用して応える。

中島氏がやっているのは、これともちがう。欧文に並んでくっついている小さな文字の日本文は、要は決してフリガナでもその延長でもなく、欧文の翻訳でもなく、全く別の短文作品なのであり、西洋語短文と日本語短文とが交互に登場してきているだけなのである。

短歌の連作を考えてほしい。連作を読む場合は、ある一首と別の一首に連関を見出してはいないか。連作に「まとまりがある/ない」という評価を行ってはいないか。その評価を行っているとしたら判断基準はなにか。
その連関はどこから来るのか。異なった意味の短文の間に、読者がうっすらとした連関を見出しているからである。それは時間・空間のつながりであるほかに、意味上の、いわば意訳的連関でもありうる。
日本語の短歌形式のルビを使用したのはこの時間・空間あるいは意訳的な連関を一首の中に再度取り込み、一首の持つ意味性をより豊かにする目的である。外国語短歌に日本語ルビを用いた理由は①日本語母語話者が外国語で短歌を作る可能性の提示、②外国語短歌が一行詩となる可能性の提示、③日本語短歌に日本語ルビを用いただけでは「装飾楽句=カデンツァ」や「宇宙=そら」といった、一定範囲内に収まる意味のズレしか許容できない読者が多数発生する恐れの回避、④一方の言語がわからない場合でも(場合によってはその表記が間違っていたとしても)もう一方の言語から意味を見出しうる可能性の提示、⑤時間・空間にとどまらない、複数の短文間の意訳的関係の明示といったところである。①~⑤の意味合いはそれぞれに重なるところがある。

ほんとうに、この作者は、何のために、誰に読ませたくて、こんなことをしているのだろうか。45RPMという英語の省略語の意味をフランス語で解説している短文を、フランス語は理解するが英語は理解しない人のために提示するのではなく、日本語として読まれることが前提の「短歌」として発表することに、何の意味があるのだろうか。

ならば、片上にとって、あるいは読者諸賢にとって「短歌」とはなんなのか。日本語でなければ短歌でないのか。自由律はどうなのか。前衛は?写実は?ニューウェーブは?口語あるいは文語のどちらか一方で作った短歌は、誰かにとっての短歌でなくなるのか?

私が多声のコンポジションで読者に示したのは、「日本語として読まれることが前提の『短歌』」というその前提を疑っていただく機会そのもの、「何の意味があるのだろうか」を心から考えていただく機会そのものである。外国語で記された一行の短歌を、各人はどのように受け止めるか、という反応の実験である。
つまり、ある者が「短歌」として提示したものを、読んだ人が「短歌」として認めるか認めないかは、読んだ個々人にとって「短歌」がどのような範囲に収まるべきものであると認識しているか、というカテゴリー認識の問題である。あるカテゴリーに同名の異物が混入したと認識した際に、それを排除する方向で拒否反応を示すか、寛容に包括するか、知的にカテゴリー自体の変容を検討するのか。そのような態度を多声のコンポジションは迫るものであった。


では、読者諸賢がこれまで心を震わせ、感動した芸術作品は、あなたがそれまでに抱えてきたカテゴリーに当てはまるものだったのか。むしろ、そのカテゴリーを押し広げてくれるようなものではなかったか。元々抱えていたカテゴリーのうちにとどまる作品ばかりを求めるのはナルシシズム的オナニーと何が違うのか。


これに対する、ベテラン歌人からの、よくある反応はこうだろうーー高い技術の短歌により、各人が認識できる短歌のカテゴリーが広がるのだ、と。なるほど。そういう在り方を私は否定しない。しかし、パラダイムシフトは技術面でも内容面でも(思想面でも)起こる。ある革新的な内容を表現するために技術革新が起き、技術革新が革新的な内容の表現を用意する。子規は、茂吉は、前衛短歌は、ニューウェーブは、そういった技術と内容の両面での革新ではなかったか。そして、「高い技術」というときの「高さ」は、或る一つの基準で図ったものであって、その基準こそがカテゴリーなのではないか。


片上の反応はまさに拒否そのものであった。私が外国語や日本語で短歌として提示したものを、「短文」と呼び、「短歌」とは認めなかった。異物に対する拒否を示した者に対して、私からカテゴリの変容や包摂を求める道理はない。
短歌がどのようなものであると認識しているか、どのような短歌を優れたものと見なすかは、片上の思う「短歌」に対する信仰である。それはそれで尊重しよう。ただ、片上の異端審問にわざわざ付き合う気は、当時も今も、ない。


ところで、外国語どころか日本語で批判対象の名前を間違えている評論を発表することに、何の意味があるのだろうか。

しかし、その場合、英語・フランス語・日本語それぞれの作品は、それぞれに別個独立のものとして提示されなければならない。そして、その一連は、純粋に短歌ではない。日本語短歌と、他の言語の短文の混合物である。

そう、このようにご自身の信仰に基づき「~せねばならない。」「それは~ではない」と言われたところで、問題の位相が異なっている。その「~せねばならない」「純粋に~ではない」という固定観念を取り払った先を多声のコンポジションは問うていた。


なお、これと同種のものが、現政権に対するヒステリー的反応に見られる。ーー「日本人であるならば現政権に対して〇〇でなければならない」「〇〇でないものは日本人ではない」「純粋な日本人ではない」。
さて、あなたはこういう人に対して何かを述べる気になるであろうか?私は幼少期から全くならない。

言語が異なるということの凄まじさを、人が特定の言語で表現するということの人にとっての重たさを、この作者は、あまり深く考えても感じてもいないようである。その鈍感と軽薄が、私にはまことに腹立たしい。

言語も文化も異なる凄まじさを知っているからこそ、詩的表現において架橋し、昇華する可能性を模索する。短歌というカテゴリの拡張を試みる。そのために、私が「短歌」という特定の表現において最大限の工夫をするということの、私や、片上以外の読者にとっての重たさを、片上はあまり深く考えても感じてもいないようである。その鈍感と軽薄が、私にはまことに腹立たしい。