寡婦、海辺へ子供を送迎す(或いは、海辺の寡婦、か?)

 圧倒的な負け戦が常に明表でありながらも尚、戦わなければならない同年代の歌人が沢山いる。ここでは特に黒瀬珂瀾氏と謎彦氏を挙げよう。
   わがための塔を、天を突く塔を、白き光の降る廃園を/黒瀬珂瀾『黒耀宮』
   「あなたこそ地球最後の源氏です」チェーンメールで構はないから!/謎彦『御製』
 黒瀬氏は1977年生、謎彦氏は1973年生。短歌のみならずそれ以外の事物に対しても、二人は博覧強記にして真摯。勿論この点も倣いたいのだが、それ以上に私が倣うべき点であり同時に競合すべき点というのは、短歌それ自体や歌が示すところの新たな境地を現出させようとするその姿勢にあろう。例えば天を突く塔や白い光の降る廃園を、或いはチェーンメールを求めるのだが、どれも自らを同定するには余りにもおぼつかない。自己の外部から内部へ、或いは自己の内部から外部へ、おぼつかないidentityを確かな足取りで求める、否、そのように見える。問題はその足跡である。 現実の足跡からも、今まで辿ってきた場所や行き先、その人となりが分かるものだが、歌の足跡からは二人が経験してきた世界、現出させようとする世界、その手法が伺えるものだ。この二人であれば自己の外部と内部を往還することで、今までよく用いられたモチーフや短歌そのものの体系という内部をも外部へと往還させてしまうだろう。私はそれが楽しくも悔しく、羨ましくも妬ましく感じられてしまう。