概念メタファーによる、秀歌性の一〈構文〉に関する試論*29

1.概念メタファーについて

(1)メタファーについて

言語学者のロマン・ヤコブソンは『一般言語学*1 の中で、「ことばが意味を伝達する基本的な形態」として隠喩(メタファー)と換喩(メトニミー)を挙げている。メタファーは二つの事物の類似性に基づいて、本来は一方の事物を示すことばや形式を用いて、他方の事物を示す手法である。例えば、コンピュータの操作に使用する「マウス」*2は、外見がネズミ=マウスに類似していることからその名が付いた。「猫背」は人の曲がった背中の様子が猫の背中に類似しているからそう呼ばれる。「会議で意見が飛び出す」という表現もまた「箱からボールが飛び出す」様子と類似して、意見が人(の口)から話される様子を指している。また、メタファーは外見上の類似からのみ成り立つものではない。「医者の卵」「アイデアの卵」といったとき、「医者」や「アイデア」は動物や昆虫の卵と外見が類似しているから理解されるのではなく、概念として〈医者やアイデアとして成立する前の段階〉という類似性があることから理解される。
このようなメタファーが用いられる理由はいくつかある。メタファーの「本来は一方の事物を示すことばや形式を用いて、他方の事物を示す」という機能によって、直接表現されても聞き手や読者に分かりにくい「他方の事物」を分かりやすく伝えるためにも用いられる。例えば「(現在のパソコンで主に用いられる)ポインティングデバイス」と言われても、「マウス」を思い浮かべるのは難しいだろう。あるいは、メタファーは「他の事物」をより分かりやすくする――一つの語から想像される複数の意味を重ねあわせることで、よりイメージさせやすくするためにも用いられる。例えば「肩の故障」というとき、それを引き起こす現実の「肩の怪我」だけではなく、「機械の故障」――機械が正常に機能していない状態、あるいは機能しなくなる事態を思い浮かべることで、「肩の怪我」という表現とはやや異なる意味合いが読み取られることだろう。

(2)概念メタファーについて

「概念メタファー」とは言語学者であるジョージ・レイコフやマーク・ジョンソンによって提示された、メタファーの基本構造に関する考え方である*3。メタファーはよく分かっている事物(「起点領域」)と理解したい、あるいは示したい事物(「目標領域」)の二つからなり、その方向性が合致することから理解されるという。例えば、一般的に、「気分が上がる」「高潔だ」「起きる」のような「良いことや優れていること、意識的なもの」は〈上〉、「気分が落ちる」「下品だ」「眠りに落ちる」のような「悪いことや劣っていること、無意識的なもの」は〈下〉の方向性をもって表現される。「気分が上がる」の場合は、人間にとって(の頭や目線が地面よりも上にあるがゆえに)、〈上〉の方に「良いこと」を表現するということが暗黙裡に理解されているため、「気分が上がる」ことが「気分が良くなる」ことだと理解される。

既に出した例で言うと、「箱からボールが飛び出す」様子や「飛び出す」という表現を知っている(起点領域)から、「会議で意見が飛び出す」という表現を初めて聞いた場合でも理解ができる(目標領域)(図2)。

先に触れた、メタファーが「類似性」から理解されるものだとすると、概念メタファーは、起点領域と目標領域のそれぞれが持つ、「あるモノがどうなる」という「〈主語+述語〉関係の類似性」から理解されるといってよいだろう。

(3)概念メタファーを援用した、現代短歌の秀歌に対する仮説

概念メタファーという考え方における起点領域と目標領域はいずれも、「あるモノがどうなる」という〈主語+述語〉関係を持ち、その関係の類似から、比喩表現が理解される。
現代短歌における秀歌の、幾つかの類型やパターン(ここでは総じて〈構文〉と呼称する)があるとするならば、その一つの〈構文〉に対する仮説を、私はここで以下のように立ててみたい――一首のうちに、起点領域として表現される〈主語+述語〉と目標領域として表現される〈主語+述語〉の両方が表現されることで、その相互関係から一首全体がより良く理解されるのではないか?――と。

2.概念メタファーを援用した、秀歌の解釈例

前項の「概念メタファーを援用した、現代短歌の秀歌に対する仮説」を援用して、秀歌の解釈を試みる。なお、秀歌という語について、本稿では「優れた歌」という意味として、「秀歌性」とは「優れた歌を、優れたらしめている点(複数の秀歌に見られる共通点)」という意味として用いる*4

線路にも終りがあると知りしより少年の日は漕ぎいだしたり
黒瀬珂瀾『黒耀宮』*5

一読して導き出される簡単な口語訳は「線路にも終わりがあるということを知ったときから、少年の〈日〉は舟を漕ぎ出すように進みはじめた」というところか*6。「日」を「日々」や「人生」として捉えると、一首のうちに「電車の線路はどこかに終点を持っている(線路にはどこかに終点がある)」という起点領域と、「少年の日々は、舟を漕ぎだすように進みはじめた、その先のどこかに終点=死を持っている(少年はいつか死を迎える)」という目標領域が発見できる。この歌の場合はさらに、線路の上を動く電車と、水上で漕ぐことのできる舟という二つの乗り物が暗に共通している点も起点領域と目標領域の類似性を捉える助けとなる*7
大辻隆弘は〈構文〉を応用する名手と言ってよい。

点描の絵画のなかに立つごとく海のひかりに照らされてをり
大辻隆弘『水廊』*8

「海の波に反射した陽光に自分が照らされている」様子を描いている。この様子の方が、読者が実際に体験したことがある、あるいは映像的に見たことがある可能性が高い。歌の読解の上ではこちらが実質的な起点領域となり、「点描の絵画のなかに立つごとく」が目標領域として理解される。しかし、目標領域であったはずの「点描の絵画のなかに立つ」ことを、「立つごとく」と直喩的に表現することで、仮想的な起点領域として再設定し、「海のひかりに照らされてをり」という様子を目標領域としてより分かりやすく、描写されたイメージを再強化している。

うれひつつ日々ありふれば木蓮の花のをはりも見ずて過ぎにき
大辻隆弘(同上)*9

直訳すれば「嘆く一方で日々を生きながらえているので、木蓮の花の最後も見ないで通り過ぎた」。「木蓮の花が枯れ落ちた様子も見ないで、その横を通り過ぎた」という主体的な動作が起点領域となる。日常の中で視界に入る花やその死に立ち止まらずに進む様子が、なにものかを「うれひつつ」、しかしその「うれひ」に立ち止まらずに日常を生きながらえてきた事実を、目標領域として理解させる。「うれひ」の対象は表現されていないが、「日々」あるいは作者が生きている「この世界」だろうか。

疾風にみどりみだるれ若き日はやすらかに過ぐ思ひゐしより
大辻隆弘(同上)*10

「疾風で若葉が乱れる。若い頃の日々は思っていたよりも平穏に過ぎる」という歌意。「若葉が乱れる」様子が起点領域になっているのに対して、「若い頃の日々は平穏に過ぎる」と過去を振り返った際の考えが目標領域となっている。しかし、この歌に含まれている起点領域と目標領域は向いている方向が真逆である――つまり、「乱れる」と「平穏に過ぎる」という真逆の表現が起点領域と目標領域として対置されている。この点においては、認知言語学における概念メタファーという考え方に正確に沿った形で「読者が理解している」とは言えないが、対置された二つの真逆の表現が互いに他方のイメージを強める点で、先に挙げた「点描」の歌の起点領域と目標領域の関係と類似している、とも言ってよいのだろう。

3.おわりに

ここまで概念メタファーという考え方に沿った形で、四首の読解を試みたが、この読解方法は特殊なものでは全くない。むしろ、作歌する場面や歌評を行う場面で多くの人が思考・試行・解析し、言語化している作歌技法や読解に「起点領域」「目標領域」という術語を足したに過ぎないと言ってよい。
本稿ではニューウェーブ後に登場した二人の歌人の第一歌集から引用したが、彼らが同じ〈構文〉を同一の歌集内でも、その後の歌集においても、あるいは他の歌人の歌を評する際にも使い続けているというわけでもない。斉藤斎藤や永井祐といった歌人の作品を評する際にも十分ではないだろう。
概念メタファー以外の――「主体化」や「イメージスキーマ」といった、「概念メタファー」にも関わる――認知言語学の考え方も、実作や評に応用できる可能性をわずかなりとも示すことができたならば本稿の狙いは概ね達成されたことになる。
概念メタファーやその他の認知言語学の概念を利用した短歌の読解は、吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』*11において〈短歌的喩〉と呼んだものとも通底する。吉本は、近藤芳美や岡井隆らの戦後短歌の秀歌を引いて、

上句と下句がまったくべつべつのことをのべているようにみえるときでも、一首としての統一はたもたれている。この統一にはしかし限界があるはずで、これ以上の異質さはたええないぎりぎりの上句と下句のむすびつきのすがたが、一首の緊張した美をつくっている*12

という、その「統一をたも」ち、「これ以上の異質さはたええないぎりぎりの上句と下句のむすびつきのすがたが、一首の緊張した美をつく」るものとして短歌的喩の在り様を示した。吉本が帰納的に〈短歌的喩〉を論じたのに対比させれば、本稿は認知言語学の成果から演繹的に〈短歌的喩に沿った秀歌性〉を検討したとも言い替え得よう。本稿が、永田和宏が「短歌的喩の成立基盤について」(『表現の吃水』(而立書房、一九八一)所収)において立てた「何故短歌においては深い対比性のうちに上句と下句がお互いに喩となることができるのか」(P.104)という問いに応える、あるいは答えをより豊かにする、その一補助線となれば幸いである。

*1:川本茂雄監修、みすず書房、1973、P.39〜

*2:「マウス」「猫背」「飛び出す」「卵」等、本項で用いている例は籾山洋介『認知言語学入門』、研究社、2010、P.36〜より引用している。

*3:ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、『レトリックと人生』大修館書店、渡部昇一・楠瀬淳三・下谷和幸訳、1986、P.95〜

*4:可能であれば「優れた歌」を客観的な資料から分析・引用したかったが、それは後の稿に譲る。

*5:黒瀬珂瀾『黒燿宮』、ながらみ書房、2001、P.56

*6:「漕」及び「線路」という表現に共通するものとして、台車上のハンドルを上下させることで車輪を回転させる「手漕ぎトロッコ」がある。ただ、あまり一般的に触れられる乗り物ではない上に、「舟」に比べるとより細分化された事物であり、多くの読者にとって連想しやすい、とは考えにくい。また、あくまで「漕ぎいだしたり」の主語は「少年」ではなく「少年の日」である。これらの点から「少年の日」が「漕」ぐものを「舟」と仮定して進める。

*7:他に、「日」を「太陽」として捉えると、「火」を象徴する太陽が水の上を「漕ぎ」いだすようであり、実景としては朝焼けの様子が、象徴としては火と水の対置が読者に看取されるであろう(太陽が水平線にある状況として、朝焼け・夕焼けのいずれもありうるが、主語が「少年の日」であるため、太陽が沈んでゆく夕焼けより、少年の今後の人生を想起させる朝焼けの方が適切だと考える)。

*8:大辻隆弘『水廊』、砂子屋書房、1989(現代短歌社、2005、P.7)

*9:同前P.14

*10:同前P.19

*11:吉本隆明『定本 言語にとって美とはなにか?』(角川書店、1990)、P.145〜。

*12:同前 P.151