【本編】加藤治郎さん、あなたは文章が読めない(11)2019年6~7月

今回は、加藤の6月と7月のツイートを確認します。加藤は6月には792ツイート、7月には537ツイートしていたようです(リツイート含む)。歌集の刊行やイベントなどがあった時期のようですね。今回は、さらっと進めます。

「歌壇」7月号時評、斉藤斎藤による「作者にとって私性とは何か」

「歌壇」7月号に時評として、斉藤斎藤による「作者にとって私性とは何か」が掲載されます。6月17日、加藤は斉藤の時評に励まされたという主旨のツイートをします。


7月6日:詩客短歌時評の連載中止が決定。

詩歌梁山泊代表である森川が詩客短歌時評の連載中止が公表されます。
blog.goo.ne.jp
時評の中止については、濱松哲朗が「塔」8月号時評で「至極残念」とコメントしています。
toutankakai.com

7月8日:加藤、noteに「氷山は溶ける。濱松哲朗、中島裕介に」を掲載

加藤はついに、noteで濱松と中島による時評に言及します。


note.com

このnote記事のあと、8月10日の「中島裕介に応えて(1)」まで、加藤からの反応は止まります。

7月25日:中島、ブログ記事で加藤・森川の態度を批判

加藤のnote記事から2週間以上が経過し、加藤の反応が止まっていたため、詩客の時評連載中止の件とあわせて批判的に言及した記事を掲出します。
yukashima.hatenablog.com
yukashima.hatenablog.com

せっかくなので、詩客時評第2回に備えて作っていたメモを公開しておきます。

内容はほぼ当初のメモのままですが、文末をです・ます調に直し、敬称を省きました。また、ここまでのシリーズ記事や前掲ブログ記事で扱った部分は省いています。

加藤による濱松・中島の文章への<評価>、ニューウェーブの<評価>

「評価」とは事実認定と価値判断の組み合わさったものです。事実認定だけでは価値判断が十分に見えませんし、価値判断だけでは根拠がなく上から見下しているように見えます。また、事実認定・価値判断、そのどちらか一方が間違っていたならば、評価そのものが間違います。(「事実認定にも価値判断が入り込む」というような、パトナム的議論はここでは省きます。)

ニューウェーブについて加藤が自分視点で昔語りをすれば「評価」となる、というものではないはずです。
(紀要論文(氏家)を挙げた程度で「ニューウェーブが世界文学!」と担保されるようなものでは(本来)ありません。まあ、歌壇では伝統的に、一部の人によって歴史が形成されるかもしれませんけどね☆)
だからこそ、過去に書かれた記事に基づきつつ、それらの記事の是非を判定して、もう一度「ニューウェーブ」を再構成することが今書かれるべき「ニューウェーブの評価」なのだと思います。

不正義の合意はできます

アマルティア・セン『正義のアイデア』にも書かれているように、「正義の定義」はできなくても「不正義の合意」はできます。「ミューズ」という語の不正義についてはもちろんのこと、加藤の権力の不誠実な行使もまた不正義として短歌界隈や歌壇で合意できると思います。

正義のアイデア

正義のアイデア


私の結社論に対する理解がおかしいです

結社論について、加藤が私の評論に賛同してくださったのはありがたいのですが、本当に私の評論を読み、2018年12月の会に来てくださったのであれば、わかるはずのことがわかっておられません。未来短歌会に対応するための方策が、どの他結社にもあてはまるはずがありません。ですから、もしも私の評論に言及しつつ、同じ内容で書きたかったのだとすれば、せめて「#結社」ではなく「#未来短歌会」というようなハッシュタグであるべきでした。
(投稿時点での追記:シリーズ記事では、加藤のnoteに書かれた、中島の結社論に対する的外れな批判を取り扱うかもしれません。)

「中島が詩客の時評連載第2回を書きたくないといっている」

森川が「中島も濱松も企画の意味がないからやめたいといっている。詩客の次回以降の掲載はやめましょう。」と(6月時点で)言って回っているらしいですね。私は森川とメールもDMも、1通もやりとりしたことがありません。森川も加藤も、時評第1回が掲載された後に何にも反省していないのではありませんか?

結局、加藤は人を選んでいる

Twitterは居酒屋」発言のあとに、「野口さんや野樹さんのツイートを擁護論として扱え」というのはおかしいし、差別的です。


「自分のツイートで巻き込んだ水原・大塚・穂村、そこに西田・荻原をくわえた人々を、濱松や中島が時評で巻き込むな(ニューウェーブの人の名前は出すな」しかし、「野口や野樹を短歌研究時評で扱っていないのはおかしい」果ては「中島のやろうとしたことはただの自説開陳だ」と仰るのは、
「荻原、西田、穂村には、加藤からの被害を及ぼすな。しかし、野口や野樹は矢面に立たせていい」と言っているのと同じ、すなわち加藤が相手を区別しているのと同じです。ましてや、自分の選歌欄の人間を自分の身代わりに差し出して恥ずかしいと加藤は思わないのですか?
害悪になるレベルの両論併記を求めたことも、「加藤は他人を区別してもよい」かのように振る舞ったことも、「濱松や中島が書く内容に干渉させろ」と求めたことも、全て加藤が猛省すべきことです。

落としどころや和解を探る第三者は、むしろ邪魔

加藤の「ミューズ」発言以降の言動について、濱松や私は問題を指摘しているのであって、(6月時点では:中島註)加藤からの返信がないままです。そんな状況下で「落としどころ」をさぐったり、仲裁しようとしたり、直接引き合わせたりしようとする人は、親切さや優しさで動いているように見えて、その実、ご自分の不快を避けたいだけで、問題の解決になっていません。大変申し訳ない言い方になりますが、邪魔です。加藤の言動の問題に何一つ向き合っていませんし、やっていることが加藤と同じで、文芸が人間関係に完敗しています。 それなら、加藤の言動を擁護し続けている人(私は見たことありませんが)のほうが筋が通っていると思われ、私には理解できます。

闘争と連帯、社会的公正、尊厳

「加藤を叩くなら、あいつも叩かないとおかしい」という問題提起をなさる方もおられるようですが、私はあまりそういう態度が好きではありません。
私は、ミューズ問題をつうじて、短歌界隈における権威主義的な言動や、それを招来する構造・制度を問題としています。その結果に、短歌におけるフェミニズムジェンダーセクシャリティ、権力/権威の問題に好影響を及ぼすことができれば嬉しいですが、短歌界隈における権力構造・制度を取り扱おうとするだけでも、正直、私の手にあまると思っています。
もちろん、ジェンダーフェミニズムも、短歌以外の分野における権威主義に対してもわずかなりとも問題意識を持っているつもりです。ただ、今の私がそれに取り組むだけの余力は当面ありません。人間の時間と能力には限界があるので、各人が社会的公正なり尊厳なり自由なりのために局所戦を戦いましょう。もちろん、連帯ができればそれに越したことはありません。個別撃破されることを防げます。ただ、連帯しないからといって、連帯しなかった相手を排撃していいことにはなりません。
そういう局所戦の総体が人類総体の進歩に繋がればいいと思います。私は他人の局所戦の邪魔はしたくありません。私の局所戦の邪魔になるものはそれを指摘します。

ここで扱わなければならないこと

「短歌界隈における権威主義的な言動」という視点へ押し広げ、それを徹底すると言及せざるを得ない他の問題も出てくるでしょう。「もっと巨悪を叩けよ」「構造改善に努めよ」という意見もごもっともだとは思います。私が「ミューズ」発言及びそれ以降の加藤の言動以上に、優先的に対応すべき巨悪の事例があるならば、ぜひご教示ください。
非力ながら、常に構造改善に努めているつもりではあります。たとえば、私の現代短歌評論賞落選評論「短歌結社の再定義」は、短歌界隈における権威主義への抵抗として書いています。結社の教育的機能に関わる面での各種ハラスメントを防ぎ、権威主義的態度に陥らず、またそういう態度にだまされないようにすることも視野に入れて書きました。
yukashima.hatenablog.com
ただ、詩客時評連載で扱う際に、加藤の言動以外にまで言及をしようとすると焦点がぼやけてしまいます。その点は予めご了承いただきたいです。

権力と権威は表裏一体

権威と権力は、同じものの、別視点による言い換えです。なだいなだ『権威と権力』の分析は半世紀前としてはとても鋭いと思います。ただ、今般では政治的「忖度」の事例が世間に広く知られているように、「権力」をもって人にいうことを聞かせることと、「権威」によって人がいうことを聞いてしまうことは見方が違うだけで表裏一体なのです。

ボランティア(無償)だからこその権力

加藤は「少なくとも権力者じゃない/つまり人を意のままに動かす力はありません/短歌研究新人賞や前川佐美雄賞の選考、毎日歌壇の選歌は業務請負です/「未来」の選歌は、無償のボランティア」というツイートをしていました。


加藤は「権力」や「権力者」について大変古く、限定的な考え方を持っていると推定されます。*1
業務請負の場合には、その元々の賞や実施元(出版社や新聞社)の知名度等を源泉とした権力を加藤が行使する・方向付けることになります。また、無償での選歌(それを「ボランティア」と呼ぶべきかどうかは別として)でも、(時には、業務委託を受けている状況以上の)権力・権威を行使することになることを確認しておきましょう。


加藤の見解に対する反論に直結するものではないかもしれませんが、いわゆる「ボランティア」仁平典宏「〈権力〉としてボランティア活動」(「ソシオロゴス」第27号、2003、pp.311~330)より一部抜粋してみます。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slogos/archive/27/nihei2003.pdf

本稿で〈権力〉と呼ぶのは、このようなボランティア活動の結果発生すると考えられる影響力である。この観点において、ボランティア活動に参加しているのは誰かという問いは、重要な意味を持ってくる。なぜなら、もし参加に社会的格差や不均衡があるとしたら、参加の拡大は、国家や市場に対して市民の力を増大させるとともに、市民社会内部において特定の層に力を与えることにつながるからだ。(P.312)

社会参加は、政治参加と異なり、「権力が発生しない」ものと考えられる
(略)
しかし、活動者の主観から視点をずらしていくと、無縁なはずの権力概念がいろいろな形で姿をあらわしてくる。まず、活動の相手である対象者に視点を移すと、ボランティアの主観的な意図に関わらず、ボランティアが対象者に対して権力的な存在として現出するという問題が見られる。というより、福祉ボランティアに関する良質な議論においては、その権力性を回避するあり方が絶えず模索されてきたと考えてもよい(原田[2000]等)。
(略)
活動の社会的機能に焦点を当てて概念化したものとしては、それを労働力と捉えるものが典型的であるが、ここではそれを一括してく労働〉としてのボランティア活動観と呼ぼう。確かに、この観点に立っても、権力が発生しない社会参加として捉えられることは多い。しかしそれは、テクノクラート的観点からの人的資源としてのボランティア論や「福祉社会」論など、調和的な社会観を前提にした場合においてである。これに対し、ボランティア活動を、例えば国家システムによる動員と見た場合、人びとを活動へと方向付ける権力が容易に発見される(中野[1999]など)
(P.313)

権力理論が行うべきことは、権力の同定問題(権力とは何か?)や帰属問題(誰が権力者か?)ではなく、さまざまな権力現象の社会的なしくみを明らかにすることだという(盛山[2000:186-187])。(P.314)

ボランティア活動と権力との関係を考える切り口として、前節の例のうち、ボランティアが対象者に対し、権力的な存在として現れ層'1という現象を取り上げよう。ここでボランティアが行使する権力の意味を考える上で、“サービス提供の無償性こそが非対称的な関係を生み出している”という洞察が、一つの有力な視角を構成していたことに注目したい。(P.314)

*1:フーコーの権力論に応じた「権力」の整理は機会があれば行います。加藤の言動に応じて指摘するならば、何かを禁止・制限するような権力ではなく、「転載の際には許諾を取るほうがよい」という形で<(短歌界隈で)生かす>ための規律として権力が機能しているといえます。