「短歌人」2018年4月号斎藤寛氏時評「AIを使って作る短歌」への指摘

「短歌人」2018年4月号斎藤寛氏時評「AIを使って作る短歌」について、内容に問題があると判断しました。
元の時評のサイズで数えて、「7ページ版」と「1ページ分の抄出版」の2バージョンを用意し、いずれかを「短歌人」誌上に掲載していただけないか打診しましたが、いずれもリジェクト(掲載拒絶)されました。7ページ版を本ブログに掲載します。

歌人編集委員の方々におかれましては、ご検討を賜り誠にありがとうございます。心より御礼申し上げます。


本文を3行で要約

人の意見の
要約を
間違えるな

本文

貴誌四月号の斎藤寛氏(以下敬称略)の時評「AIを使って作る短歌」(以下「時評」)について、看過いたしかねる誤認・誤解を誘発するものと捉え、指摘をさせていただきます。なお、本稿は〈指摘〉という体裁をもって斎藤への〈反論〉とします。論の体裁をなしていないものに反論することは、私にはできません。

以下、端的に言えば、斎藤の時評は私・中島の座談会中発言を捻じ曲げてつくった、私ではない藁人形を叩く類の論法(「藁人形論法」「ストローマン」等で調べてください)であったことを指摘します。大まかに五点を指摘します。

座談会で配布された資料はこちらからご覧いただけます。
yukashima.hatenablog.com
なお、この資料は座談会で配布された後、本ブログで公開していますが、斎藤はこれを読んでいないものと前提して記しています。

1.

斎藤の時評は二段落目から「角川短歌年鑑」平成三十年版に収録された座談会「人工知能は短歌を詠むか」に触れています。この座談会には私・中島も参加させていただきました。本稿に頻繁に出てくる「永田」は永田紅です。斎藤時評の二段落目中段を引用します。

さらに永田は、人間とAIの決定的な違いは「時間感覚」であり、人間は有限の生の中で時間という意識を持ちながら歌を作っている、と述べていたのだが、それを引き取った中島は永田の言う「時間」を「時間の経過」と受け取り、例えば結婚したとか子供が生まれたというような変数をAIのプログラムに設定し、それをONにすることによって、「歌集や連作の中で作者の時間が経ったように装うことは出来る」と述べていた。永田の言う「時間」は、人間が時間を持つのではなく時間の中に人間が在るというような実存哲学的なものであったところ、中島はそれを物理的に計量可能なものとしての「時間の経過」と解したようだ。両者の話がすれ違ってしまったのは当然の帰結であろう。歌を詠む者にとって切実な「時間」は、もちろん永田が言っていた「時間」の方である。

この文脈では中島が永田の発言に対して理解ができていない、あるいは曲解しているかのように受け取られるかと思いますが、斎藤のいう「引き取った」際の冒頭で私は「短歌を作るAIに話を限れば」(「角川短歌年鑑 平成三十年版」P.138。以下、ページ数を記載しているものは全て「短歌年鑑」からの引用)と明言しています。斎藤のいう「歌を詠む者にとって切実な『時間』」について私は何ら否定していません。

私の「短歌を作るAIに話を限れば」という発言も、永田の直前発言

評価の話で、同じ作品を読んでも、自分の年齢によって感じ方も違ってくるじゃないですか。そういう変遷もAIはフォローできるんですか。(P.138)

という問いが私へ投げかけられたからです。永田自身が人間の作者・読者としての見解を述べた後に、人工知能がそれに対応しうるかを問うています。すなわち、永田の理解も私の理解も、斎藤が言うようには「すれ違って」いません。
すれ違っているとしたら、座談会の後半で永田と私が

永田(略)実作者としてはありますよ、時間は。
中島 ありますか。
永田 あります。一首単位でなくて、やっぱり時間だと思いますよ。
(中略)
中島 多分「時間」という言葉の解釈がすれ違ってしまっていると思うんですけど……。もちろん作者としての私自身の中でも「前と違うな」と思う場面というのはあるんです。極端なこと一言うと、子供スイッチONになったとか、結婚スイッチONになったとか。(P.144)

という発言をしている箇所でしょう。しかしこれは斎藤が引用した「歌集や連作の中で作者の時間が経ったように装うことは出来る」(P.139)という中島の発言よりもだいぶ後です。もちろん、私の発言に一貫性がありますので、まとめていただいてもかまいませんが、すれ違っている理由を中島が言明している以上、どう考えても、永田発言を中島がどう「解した」かの問題が生じたのではなく、両者が「時間」という語の用い方の違いを適切に理解したうえで、議論のさらなる発展を図っているだけです。

また、座談会のテーマが「人工知能は短歌を詠むか」である以上、参加者に問われているのは、短歌の作者が人間である場合ではなく、人工知能となる可能性に対する見解です。永田があくまで人間作者としての見解を述べていることを理解した上で、人工知能が短歌を詠む場合へと私が議論を落とし込んでいます。
このような私の立場を端的に表明している発言があります。

中島 私がこの議論で問題視しているのは、作者が発した言葉や歌を読者が読んだときに、作者の特権としての時間を常に読み取っているのかという点なんです。(P.145)

このような立場のどこが「物理的に計量可能なものとしての『時間の経過』」なのでしょうか。永田や私が議論の俎上に乗せていたのは、斎藤が時評でいうような「実存的な時間と物理的な時間の対立」などではなく、「作者の持つ特権的=実存的な時間を、読者がどう受け止めているのか」という点なのです。

以上、斎藤時評の問題の一点目は永田と私の発言を十分に読んでもおらず、さらに両者発言の位相を混同し、かつその要因を中島の理解力不足によるものであるかのように記述されていることにあります。斎藤に「中島はそれを物理的に計量可能なものとしての『時間の経過』と解したようだ」と、私に永田発言への理解力がなかったかのように書かれる謂れはありません。以下も同様ですが、斎藤の中島に対する筆致はアンフェアかつ悪質です。

2.

斎藤時評の三段落目。

AIにはこの世界の中での固有の立ち位置はあるのか。この世界の感受、この世界との交渉において固有のモードはあるのか。AIに死はあるのか。詠まずにはいられないという切迫感によってAIが歌を詠むことはあるのか。というように考えてみれば、「人工知能は短歌を詠むか」という問いに対する答はおのずと明らかだろう。

これはそもそも「人工知能は短歌を詠むか」というテーマに対する疑義が暗に呈されているものと理解しています。ならば、その前の段階で中島の発言を引用する必要があったでしょうか?
この斎藤の疑義はテーマそのものに関わる以上、当然のことながら座談会冒頭から全員が検討しています。参加者各人の、人間の実存、感性や感情と、人工知能の存在性との違いに関する発言を参加者各人から抜き出してみましょう。

小島 (略)①の場合は、過去の作品を彪大なデータとして、言葉やリズムをパズルのように組み合わせて短歌を作る場合で、それは可能だと思うんです。私の先輩の影山一男さんは、誰々風にということで楽々短歌を作って、小島ゆかり風って短歌を見たら歌集に入れたいくらいの私の歌だったんですけど、AIにはそんなことは楽々できると思います。
②の場合は、人間に限りなく近い知能を持ったAIが出来て、感情を持って、私達が歌を詠むのと同じように短歌を詠むという場合があると思うんです。(中略)
②の場合は難しいんではないか。ただ前(登志夫)さんの(「かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の鶏らひにけり」という)歌に①の方法からたどりつくことは可能だろうという気はしていますが、そうして出来上がった歌が本当に歌と言えるかどうかという疑問は残ると思います。(P.128-129。丸括弧内は中島が補いました)
森井 (略)今までだったら文学的な方法論とか文学の観点からしか短歌を考えていなかったけれど、AIに注目することで、また違う観点から、短歌が出来上がる仕組みの凄さ、歌人が無意識でやっていたことの凄さみたいなものがより明らかになっていくのではないかなという気もしています。そこで、入力して出力するまでの間で、AIやコンピュータと人間の違いは何かというと、自己意識とか内省的な意識。そういったものはまだAIにはない。逆に人間が自己意識を失ってしまって、機械化、無機物化してしまうと、良い精神活動、芸術作品は生まれて来ない。短歌の場合はただの言葉の羅列になってしまう。AIが注目される中で、人間とは何か、人間とAIとどこが違うのかという点から、明治以降今までずっと同じようにあると思われていた「私」というものや、それを表現する方法をもう一度見直して、更新することができる、そうした可能性が出てきたのが現代かなという気がしています。(P.130)
中島 (略)AIが人間の意識と似た意識を持つことを前提にしなくとも、言葉の羅列だけでも短歌らしいものは十分に生まれて来る。言葉の羅列が短歌らしいかどうかを判別してきたのは作者ではなく読者であって、「AIが短歌を詠めるかどうか」という問題は「読者が言葉の羅列の中に短歌らしさを見出せるかどうか」ということだと思います。(P.130-131)
坂井 中島さんの資料の「強いAI」「弱いAI」は、先ほどの議論と近い話で言えば、「強いAI」は、感情まで理解すると考えていい。「弱いAI」は、今そのへんにありふれて在る……。(P.133)
永田 (略)人間は限りある生があって、その生の中で時間という意識を持ちながら歌を作って、悲しみとか色恋とかがあるわけですけど、AIはそれがどうなのかな、プログラム出来るのかな、そこの違いが時間かなと思いました。(P.136)

このように、小島・森井・永田は人工知能が作る短歌への疑義、人間との関わり、それらを検討する意義を述べています。中島は疑義を避けるための作者―読者の視点の転換可能性を提示しています。坂井による、人工知能一般における感情の扱いと用語説明も議論の整理も、他四名の議論の助けになっています。
また、斎藤の「詠まずにはいられないという切迫感によってAIが歌を詠むことはあるのか」という記述についても、当然座談会で触れられています。

永田 そうですよね、AIは何をモチベーションに歌を作るのか。
坂井 強いAIは短歌を詠む必然性を持つか。(P.140)

このあと、P.150には「◆AIが歌を詠む動機は?」という見出しがあり、人工知能が短歌を作る場合の動機の可能性について検討しています。
斎藤のいう「この世界の感受」については、哲学や人工知能の世界では一般的に「記号接地問題」と呼ばれる課題ですが、座談会の中でも当然議論しています。私の発言に限っても、ゲーム内短歌について触れている(P.132-133)のも、「世界の感受」の形式の試論になるからですし、人工知能を搭載したアンドロイドについて検討している(P.155)のも同様です。
なお、人工知能は「知能」であって、必ずしも「この世界の感受」を行う身体を持つものではありません。身体を持つ人工知能は、一般的にアンドロイドと呼ばれます。そして、「人工知能による短歌」を検討する上で、アンドロイドという補助線を引いたことは有意義だと思いますが、それは座談会の本題ではないでしょう。この座談会に対する斎藤の問いは、「この八百屋は魚を売っていない」と難癖をつけるようなものです。
斎藤の立場を好意的に推測して、仮に「人間が作った短歌のみを短歌と認める」という立場だとすれば表面上の理屈は通ります。しかし、そうであるならば、座談会の「時間」云々などといわず、「人工知能が作った短歌など短歌と認めない」と述べればよい話です。ただし、それはあくまで斎藤の、短歌に対するある種の信仰と、それに基づく異端審問でしかありません。
以上、斎藤時評の第二の問題点は、座談会で書かれていることを読んでもいないし、それがご自身の問いに答えているかも検討されていないことです。
ここまではまだ序の口です。

3.

斎藤時評の四段落目の冒頭、

それでも中島は、現在ネット上に公開されている短歌生成装置の例三点を紹介し、それをもってAIが短歌を詠むことはすでに出来ているとみなしてよいと述べていた。

とあります。この「それでも」とはなんでしょうか。時評を読めば「それでも(私が自らの『時間の経過』という見解にこだわって永田に反論するかのように)紹介し、述べていた」と捉えるのが、逆接の接続詞「それでも」を含めた一般的理解でしょう。しかし、私が座談会中で斎藤のいう「短歌生成装置の例」を挙げたのは、「時間の経過」に関する話題よりも前です。つまり、斎藤の言を用いて整理すれば
 ①中島:短歌生成装置の実例を紹介(P.133-135)
 ②永田:歌人にとっての時間の大切さを提起(P.136)
 ③中島:物理的に計量可能な時間経過をAIが装う場合の可能性について提起(P.138)
しているのであって、その逆ではありません。
たとえば、「ヒーローが悪役に一度は倒されたあと、何かを得て、ヒーローが悪役を打ち倒す」類のハリウッド映画を思い浮かべてください。この順番が逆だったらどうでしょう。「ヒーローが何かを得て、悪役を打ち倒した後に、ヒーローが悪役に倒される」という結末では、全く変わります。斎藤時評のみをお読みになった方は、中島が「それでも」と無闇に永田に突っかかっているかのように読むのが普通だと思います。斎藤がご自身の実存的な時間のもとで座談会を捉えるのはお好きになさったらよいでしょう。ただし、他の方が読まれる場で、間違った時間の経過順で私の発言をまとめられることまで「お好きに」とは申し上げかねます。
また、斎藤の記述「(中島が)現在ネット上に公開されている短歌生成装置の例三点を紹介し、それをもってAIが短歌を詠むことはすでに出来ているとみなしてよいと述べていた」のは

言葉の羅列が短歌らしいかどうかを判別してきたのは作者ではなく読者であって、「AIが短歌を詠めるかどうか」という問題は「読者が言葉の羅列の中に短歌らしさを見出せるかどうか」ということだと思います。(P.131)
我々は読み手として切り出された言葉の中にポエジーを見出しちゃうじゃないですか。(P.134)

というように、現行のプログラムが作った短歌を、あくまで読者がどう捉えるかの話をし、その観点において「ここまで来ているならば、今の時点で『AIが短歌を詠む』ことは、既に出来ていると見なしていいのではないかと思います」(P.135)と発言しています。斎藤がいうような作者の話をしておらず、ましてや「おのずと明らか」なわけでもありません。
時評の第三の問題点は話題の順番を勝手に入れ替え、中島が無理解に強弁したかのように記述したことです。

4.

斎藤時評の第四段落の末尾は、佐々木あららが作成したプログラム「犬猿短歌」に触れ、

しかしそれはあくまでも気の利いたフレーズの斬新な組み合わせとしての一首、という域を超えることはないだろう。

とありますが、座談会の中で中島は犬猿短歌の説明に際して、

名詞や修飾語など五百個以上の語棄と構文二十種類を設定して作ったものです。(中略)
これは佐々木さんからの、短歌自体や読者に対して挑戦状を叩き付ける試みなんです。「月とか星とか、よさそうなイメージの単語が入っていれば、どうせ『いい歌だ』と思っちゃうんでしょう?」と。(P.133)

と明言しています。すなわち、犬猿短歌の仕組み上、斎藤氏の仰る「あくまでも気の利いたフレーズの斬新な組み合わせ」であることを中島は座談会中で示しています。座談会登壇者は中島が提示した事例とその意義を踏まえ、さらにその先の人工知能が短歌を詠む可能性を討議しました。誌面にも反映しておりますので、読者諸賢におかれましては座談会の記事を直接お読みいただければ幸甚に存じます。

5.

時評の最終段落です。

そもそもAIは短歌を詠むかというこの座談会のテーマの立て方自体にも問題がありそうだ。AIの背後にはその製作にかかわった人間が必ず存在している。その人間がAIという機械を使って短歌(らしきもの)を作る、と言う方が正確だろう。

ここで斎藤から座談会のテーマへの疑問がはっきり示されました。しかし、本稿2でも触れましたが、「人工知能は短歌を詠むか」というテーマですので、「その人間がAIという機械を使って短歌(らしきもの)を作る、と言う方が正確」かどうかを討議するために参加者は集められ、「短歌年鑑」の三十ページにもわたる議論をしたのです。そして、その議論の主題に沿って、先に引用したように

中島 (略)AIが人間の意識と似た意識を持つことを前提にしなくとも、言葉の羅列だけでも短歌らしいものは十分に生まれて来る。(P.130-131)

と「短歌らしいもの」についての疑義を、ほかならぬ中島が提示しています。
また斎藤は「正確だろう」と推定する論拠として「AIの背後にはその製作にかかわった人間が必ず存在している」と述べています。当然のことながら、AIすなわちArtificial Intelligence=人工の知能という語義なのですから、人が作っていることは自明であり、論拠になるようなものではありません。ただの語義説明です。
しかし、語義説明も勝手に順番を入れ替えてはいけません。「りんごは果物である」が成立しても、「果物はりんごである」は成り立ちません。3でも指摘したように、斎藤は座談会での話題の登場順を逆転させていました。斎藤が論じようと試みたように、本当に「その人間がAIという機械を使って短歌(らしきもの)を作る、と言う方が正確」ということを、座談会やその反論から導出できるなら、ここまで指摘したような登場順の逆転や身勝手な要約、論理のすり替えは不要だったはずです。
座談会のテーマに問題があったというなら、永田や私の発言の「時間の経過」云々に言及する必要すらありません。私の発言への言及の仕方が間違っているならなおさらです。ましてや、斎藤が論じようとした「短歌(らしきもの)」について座談会の冒頭で発言した中島が無理解であるかのように記したのです。きわめてアンフェアかつ悪質です
そして、何度も記してはいますが、斎藤の論は座談会の話題の登場順を逆転させています。時評全体も、実際上〈座談会の議論を遡り、議論の前提を斎藤自身の結論とする〉という形になっています。逆行させ、前提を疑うならば相応の論立てが必要ですが、これまで見てきたとおり、時評ではその論立てがなされていません。その結果、私に限らず、参加者全員に対して、道理もなく難癖をつけている体裁になっています。
仮に斎藤のいうように「その人間がAIという機械を使って短歌(らしきもの)を作る、と言う方が正確」だとしましょう。斎藤が「人間が作った短歌のみを短歌と認める」すなわち「思想又は感情を創作的に表現したもの」のみを短歌だと考えている可能性について触れました。「~と言う方が正確」という発言は私の推測と齟齬が生じません。しかしこの点についても、中島は

AIと著作権に関する議論は政府でも既に進められています。開発されたAIそのものの著作権は認められるものの、そのAIに著作物を開発させても基本的に著作権の対象にはならないという整理になっていると聞きました。著作権法では、「著作物と呼べるものは、「思想又は感情を創作的に表現したもの」、と規定されているので……。(P.135-136)

と発言しています。その点で斎藤は著作権法どおりの、著作物としての短歌を考えている、ともいえそうです。それはそれでお好きになさればよいと思いますが、私は斎藤の異端審問にお付き合いする気はありません。

6.

以上、これでも細かい点を省き、五点の指摘をさせていただきました。
斎藤は時評を

物象化的錯視ならぬ人格化的錯視とでも言うべき誤認に陥ってはならない、ということをも思ったのだった。

という一文で締めくくっておられます。この点に私は大いに賛成します。ここまで申し上げたとおり、斎藤は中島に対して〈ご自分にとってたたきやすい、都合のよい人格化〉的錯視を行いました。読者諸賢もこのような誤認に陥られないことを切に願います。

補足

斎藤の時評の問題を簡単にいえば、「大学生のレポート以下である」ことです。


たとえば、立教大学のウェブサイトではレポートの書き方が簡潔に示されています。
http://www.rikkyo.ac.jp/about/activities/fd/qo9edr0000005dbr-att/MOW_1.pdf
ここの「調べて書く」という部分が、まず斎藤の時評から抜けています。少なくとも、「要約」や「どのような見解・意見なのかを読み取り」「その意見の根拠は何かを読み取り」という部分で失敗しています。そういう、大学入学時に学ぶような(少なくとも知名度の高い結社誌で時評を記すならば求められるだろう)基本的な論述マナーが欠けているのです(斎藤のすべての時評・評論がそうだとは言っていません。過去に読んだ斎藤の文章に、私も教わったことがあります)。


そのような論述マナーが欠けた文章を「論」として扱うこと、すなわち「斎藤の文章に反【論】すること」は、私にはできません。