5月26日

5月26日、朝6時起床。本を読み、二度寝。10時、再度起床。
10時半、舞踊評論誌「Corpus」が届く。読んでいると、一緒に舞台をやっていたDさんからメール。嬉しくなって長文メールを書く。
昼は冷凍食品の炒飯になる予定。
その後、短歌研究の原稿をまとめて、夕刻、H・アール・カオスDrop Dead Chaos」を観に行く予定。


と書いたのち、冷凍食品の炒飯を食す。その後、気分転換にシャワーを浴び、いくつかの生活用品が残り少ないことに気づき薬局へ。その後、掃除・洗濯などして、夕刻より世田谷パブリックシアターH・アール・カオスDrop Dead Chaos」を観に行く。


この作品はちょっとひどい。H・アール・カオスはもう観に行きたいと思えない。美術も音楽も美しく、ダンサーの技量も非常に高いのに、なんと面白くないことか。始まって5分で眠気が襲う。元BRONXの群青だけが動きの質が全く異なる分、面白く感じられる。彼が踊るところだけは目が覚める。
何が面白くないのかを考えて、単純なレベルでは音楽と振付、振付の構成と意味ってところに要因があるのだろう。そこで、ありとあらゆる「関係性」なり「志向性」なり「意味作用」と、顕現する身体の在り様なんじゃないか、なんてことをぼんやり考える。こんなありきたりな結論に行き着いたので、もう一度哲学書を読み直さなきゃいけないんじゃないか。反省。*1


終演後、渋谷へ出た際、Bunkamuraモディリアーニ展を観に行く。モデルに対するアプローチの違う二人の絵。個人的にはジャンヌ・エビュテルヌのほうが腑に落ちる感じ。


で、今日はあまり原稿が進んでいないので、心を仕事モードにするため職場に来た。1時間くらいは原稿に手を付けようかな。

というわけで、1時間ほど歌稿を触って23時過ぎに退社。帰り際に偶然、ビルの1FでCさんに合う。仕事帰りの模様。0時過ぎに帰宅後、少し本を読んで1時半就寝。

*1:同じ記事を職場のブログに書いた後、コメントを頂いた。それに対する私からの返信は以下の通り。

>> 私が一番引っ掛かったのは、「ダンスとその構成に必然性が見出せないこと」「ダンスと音楽に関係性が見出せないこと」の2点でした。
題名やパンフレットに色々と「社会と身体の関わり」(いわば、間身体性と身体図式の狂い)のようなことが書かれていたのですが、あのダンスからそのコンセプトに関わる身体語彙は余り見出せませんし、なるべく拡大解釈しても「白河直子という個人と社会の関わり」を中心とした物語までにしか読み解けません。もし、ある個人と社会の関わりについて語るならば、舞台化する(いろんな表現手段の中から舞台を選ぶ)必然性を感じません。
もう一つ、音楽についても、群青以外のダンサーにとって音楽は「振りのきっかけ」にしか過ぎず、音楽のリズムもメロディも一切関係ないところで振りが構成されています。身振りが音と合わないからすごく気持ち悪くて。その点、群青は音楽と「共に踊っていた」ように見えました。
あと、敢えて言えば、コンセプトも古い。社会と身体の関わりの変容なんてずっと十二分に議論されてきた訳です。それを舞台芸術作品とするならば、今までに見たことがない、新たな様態を提示してもらいたいものです。<<