謎彦さんに宛てて、小論

「謎彦さんと私」という組み合わせの必然は二つある。一つは昨夏の第1回歌葉新人賞で最終候補に挙げられたこと。もう一つは実験性や引用性を重視していることにある。
 実験性に関して言えば自選20首の内の9首目や18首目が顕著だろう。前者は如是我聞という法華経の発句、或いは太宰治の遺作を示す言葉で始まりつつも、後は仏教典に見られる漢字を主に用いた当て字である。後者は荻原裕幸の▼や加藤治郎の!を髣髴とさせるように▲を十七文字(俳句の音数)用いて、残りの平仮名を逆さまに読むように指示している。
引用性に関してはどの歌についても言えるのだが、特に17首目は特徴的である。山頭火の言葉を二句とし、三句目以降をカエサルの名言を引いている。つまり、「全ての道はローマへと通ず」からこそ戦勝からの帰路がまっすぐになってしまい、さみしいのである。
このような引用性が何を導出するのか。「作者にとっての読者」ではなく歌そのものに於いて、読者以外の「他者」を導出するのである。作者の私性と読者の経験が寄り掛かり合うよりも早く、読者が「如是我聞」した物事や作品が読者の前に立ち上がってくるのである。
ところで、謎彦さんの歌にあって私の歌に無いものが二つある。文学に対する理解の深さと、おかしみの存在である。謎彦さんが文学的・短歌的イニシエーションを経ているからこそ、仕掛けられたパロディが読者に分かるようになっているのだ。