「ゆらぐ」(初出:「短歌研究」2015年9月号。初出から一部追記)

新しいことばって新しい概念や技術、商標名といったものだろう。そして、マスメディアで喧伝される政治や経済の言葉。ウェブ上のジャーゴン。若者言葉やちょっと変わった言い回し。そういうことばを知ると即座に歌に使う衝動に駆られる――けど、踏みとどまる。
古いことばのなかでも知らなかった表現を知るとすぐに使いたくなるが、やはり踏みとどまる。例えば「夢見草」「挿頭草」「徒名草」といった桜に付いた数々の異名。
いずれも歌に盛り込むにはイメージが強すぎるか、弱すぎる。知っている人が多すぎるか、少なすぎる。あるいは、古いことばは雅やかすぎる。それでも使うとしたら、あまり知られていなさそうなことばに限る。知られていないことを前提に、読み手がそのことばを知らなくとも解釈可能な使い方をするように心がける。あるいはよく知られていることを前提に、読み手によってそのことばの解釈が変わる使い方をするように心がける。

さくら咲いて日本まがひによそほふをマクドナルドの窓よりぞ見る 岡井隆『〈テロリズム〉以後の感想/草の雨』

例えばマクドナルドはどうだろう。日本に出店してから四十余年。出店当時はハンバーガーの値段が高くとも、大変な人気であったと聞く。この歌が詠まれたのはハンバーガー一個の値段が大幅に引き下げられ、不景気時でも日本マクドナルドが莫大な利益を上げていたころだ。二〇一五年現在の、食品の安全問題が起こったあとのマクドナルドのイメージで読むとまた異なるだろう。
歌に使うことばは時間とともに少し揺らぐくらいがいい。死んでもらっては困る。揺らいで、そのイメージが文脈のなかでようやく位置を得るようなことば。連作での布置のされ方によって、イメージが変わりうるようなことばを使う。文脈が、連作の歌の並びが変わっても、意味が変わらないことばなんてない。
揺らぐことばを幾度も結んでは解き、結びなおすのが、作ることの楽しみだ。



泥の撥ねたデニムの裾をふるわせてマクドナルドの前を通った 中島裕介